正義は勝つが善意は負ける/救いのない透徹した視線を持って勝ち目のない戦いを続ける孤独な正義の人
Posted at 07/09/03 PermaLink» Tweet
「正しい」とはどういうことかについて考え続ける。「正しい」ということはすべて相対的なことで、絶対的に正しいということは存在しない、という考え方はたしかに精神衛生上は有効な考え方だ、と友人と話していて思った。しかし、それはそれで分かるのだけれど、というか、正しいということは相対的なんだ、と言っておいてもっとほかのことを考えるべき人間というのは絶対にいるということなんだと思う。私が「正しいもの」について考えている間に、「美味しいもの」について考えている人がいた方が、世の中は絶対に楽しい。
何をきっかけにそう考えたのか忘れてしまったが、「正しい」ということは相対的な、あるいは揺れ動くと考えられない部分はないわけではない、と思っていたのだけど、ああそうだ昨日ブログで書いて思い始めたのだ、正しさというのは、真実に「基づく」ものであることに越したことはないが、というかそうある「べき」ものではあるのだが、真実に「従う」べきものではない、ということを考えたのだ。台湾の李登輝前総統は、蒋経国元総統の「学問的真実」と「政治的正しさ」についての判断の仕方に学ぶところがあった、ということを言っているが、そういうことだと思う。李登輝前総統は学者出身の政治家が大成した稀有な例だと思うが、「正しい道」を見極めるために「真実」を追求し、それを政治的に適用する桁外れの情熱を持っているからだ。
つまり、「正しさ」とは単に相対的だったり揺れ動いたりするものではない。「正しさ」とは、政治的なものであり、意志的なものなのだ。何を「正しい」として採用するかという「意志」にそのすべてが懸かっている。判断が変更されることもあるが、その変更そのものに政治的な決断を必要とする。そこが「真実の追求」とは異なる。
「真実の追求」は間違ったことを改めるのに憚ることがあってはならない。逆に真実というのは、「これ」と固定できないところに逆説的に真実の存在価値がある。その真実を自分の「真理」あるいは「正義」として採用したとたん、それは真実ではなく、ある意味での政治的な意志となる。現代は人間としての行き方そのものが政治的な意味を持たざるを得ない時代だから、どんな生き方を自分なりの「正しさ」として採用したところでそれは政治的な意味から遁れられない。
その「正しさ」、「信念」に「従う」強さが意志の強さであり、正しいものを持っていてもそれに従いきれないとただの「善い人」に終わる。逆に、信念はあってもそれが客観的に見て間違っていると「悪い人」になる。悪い人は強い。悪源太義平、といった異名が示すように「悪」とは「強い」という意味でもある。信念もなく、正しくもない、というと「邪な人」ということになる。よこしまであることは間違っていることでもあり、曲がっていることでもあり、そこには正しいものに比べると欠落があり、弱さがある。そこが「悪い」ということとは異なる。
「正邪」は正しいほうが強いが、「善悪」は悪い方が強い、という感じは分かりやすいのではないか。「正義は勝つ」が「善意は負ける」とでもいうか。
しかし正義は先に行ったように政治的なものであるから、いつこちらが「破邪顕正の剣」にやられてしまうか分からないから油断できない、ということはある。日本が韓国や北朝鮮の理屈(中国にも)に押されてしまうことがよくあるのは、日本人が「正義とは相対的なもの」と高をくくっていて、相対的なものだから最初から「まず落としどころを考えよう」という発想になってしまうから足もとを見られるのであって、彼らは「正義とは政治的・意志的なもの」と腹をくくっていて、客観的事実がどうであろうととにかく無茶振りして押し続けるところにある。腹をくくっている連中に高をくくっている人間が敵うはずがない。
日本人は政府が正義の相対性に高をくくり、国民の大多数が「善意の人」になっているから「国民総政治的正義」の人たちに勝とうというのが無理だ。意志的に日本の正義を主張しようという層も増えていることは良いことだが、やはりまだまだ未熟な感じがするし、単なる「思い込みの強さ」がまだ「意志」にまでは成長していない感じがある。今後に期待するべきだろうし、またそういう研究は進めるべきだろう。国家的援助を得るのは難しそうだが、朝鮮半島やいわゆる植民地統治における「成果」というものはもっと積極的に「研究」(「宣伝」ではなく)されなければならないと思う。
日本人が韓国人の主張に理屈はわからないでもないがなんか腹立つなあと思うのは、結局「正義」の持つ政治性とか胡散臭さのようなものが今の日本人には肌合いが合わない人が多いということでもあろう。「人権派」の弁護士の活動も理屈だけで詰めて行けば、「被告人の利益」のためには法廷サボタージュ戦術とかファンタジー的な被告人供述の捏造とかなりふりかまわず何をしてもいいということになるけれども、その正義のあまりの一方的な政治性に辟易してしまうということなのだと思う。結局、彼らの正義に対抗するには別の正義を立ててマスコミを中心に「世論による包囲網」を形成するということになっているが、本来はこういうのはちょっと未熟な対処の仕方であって、彼らの活動に対する別の角度からの意志的な正義をきちんと構築して言論で戦うべきだろう。
「人権派弁護士の内幕を暴露」とか「本当はひどい奴らなんだよ」という足を引っ張るばかりではあんまり建設的なことにならない。人権派の主張は、基本的には「悪」というよりは「行き過ぎ」だ。国家が圧政を敷くとき、人権派の主張と闘争が有効なことは現代の中国を見ればよくわかる。日本の人権派が中国の圧制政府にシンパシーを持っているということはこの際別の話であって、それは違う方面から批判しなければならないだろう。「人権派」批判がなかなか大きな力としてまとまらないのは、政治的な戦い方がまだまだ洗練されてないからだと思う。
話がずれた。
現在ではある意味魅力的な「悪人」すら少なくなり、単なる「邪な人間」が風に吹かれて漂っている風情がある。こういう状態を末世というのだろう。
***
amazonのポイントが溜まっていたこともあり、鈴木晶子編『これは教育学ではない 教育詩学探求』(冬弓舎、2006)を購入。目当ての論文は、野口裕之「生きることと死ぬこと――日本の自壊」である。野口は野口整体創始者野口晴哉の次男で、その後継者といっていい人物。現在では社団法人整体協会内部で身体教育研究所を主宰している。私の理解では、整体協会が野口整体の普及機関で、身体教育研究所はその最新の思想・理論・技術の研究機関である。
これは教育学ではない―教育詩学探究 (叢書konTakt (1))鈴木 晶子冬弓舎このアイテムの詳細を見る |
一読して日本の近代の「近代化」=「欧化啓蒙」政策について非常に悲観的な見方をしているということがびんびんと伝わってくる。曇りない目で直視すればたしかにこう考えざるを得ないだろうと思う。個々の事実についての言及はちょっと違うのでは、と思うところもないではないのだけど、現象の背後にある惨憺たる実情というか、そういうものを見る目というのは正確であると思う。
腹腔鏡手術の未熟な医師たちが手術に失敗したビデオの中で、「ヒッヒッヒ」と笑っている気持ち悪いものがあったのを覚えている方は多いだろう。あの「薄気味の悪さ」というものは日本の近代がついに到達した地点であり、その薄気味の悪さは彼らだけの問題ではなく、自分の中にも発見しうるということに気付いて愕然とした、というところから始まる。この全く救いのない透徹した視線にまず打ちのめされる。
印象に残ったことを書くと、感性や美の発展というのは新しい美を発見する感性によってもたらされ、知性がそれを命名するという「暗示的な力」によって実現する、ということ。利休が壊れた器に今までにない美しさを発見して「侘び」と名づけ、芭蕉が萎れた花に新しい美しさを発見して「しをり」と名づけた、という話はなるほどと思う。
「欧化啓蒙」の正体を「理性・知性」による「感覚・感性」の「征服・植民地化」にあるという見方は非常にラジカルで、私自身もそこまで言い切る自信はちょっと今のところ持てない。しかしそこに真実があるということは感覚的には理解できる。だがついて行くのに恐ろしさを感じるとでもいえばいいのか。「死因を発表する」こと自体が「機械的身体観」の普及に役立ったという指摘にはなるほどとは思うが、ラジカルなものを面前にした恐れの感覚をいだかざるを得ない。小林よしのりが「従軍慰安婦」を否定する執筆活動を始めたときに目眩を感じた感覚と同じだ。「正しいが、勝ち目のない戦い」、と感じてしまうのは私の弱さだろう。「死とは『死因』によって生じたものではなく、『生因』が消滅したものだ」という指摘は全くその通りだと思う。死因などなくても、人は死ぬときは死ぬ。死因をこじつけることはもちろん可能ではあるだろうが。
「勝ち目のない戦い」を戦い続ける孤独な「正義の人」の、人を寄せ付けない強さのようなものがこの文章からは感じられる。
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