「正しさ」へのこだわり/欲望と感謝

Posted at 07/09/02

ここ二三日、ものが書けなくなっている。というのは、ものを考え始めてしまったからだ。書きながら考えるとか、読みながら考えるというたちのものならいいのだけど、そういういわば導きの糸に当たるものがないまま考えて、手当たり次第にヒントを探す、というたちの考え方になるものについて考えているので、書くという方に頭が動かない。

ただ、ただ考え続けているとどうも体調が悪くなってくる、というか、日記だけでも書かないと調子が悪いというか、いやむしろ日記を書くことが体調を整えている面があるという意味からも、考えるということについてのプラスマイナスはともかく、とにかく書くだけでも書こうと思って書くことにした。しかしそういう理由で書こうと思ってから数時間は経過している。よけいなことを考えたりしたりしてしまうのは、ある意味書くということに対する往生際の悪さが出ているということだ。

金曜日の日記にも書いたが、中村天風の本を読んでから、「尊い」「強い」「正しい」「清い」精神性とはどういうことか、について考えていて、それなりに自分なりの考えをまとめつつはあるのだけど、「強い」とか「清い」というのは感覚的に理解しやすい概念で、また「尊い」というのもなかなかにスピリチュアルな面はあるけれどもまあ感覚としては私にはかなり分かりやすい。ただ、「正しい」というのが難しい。

あんまりこういうことをブログで書いても仕方ないと、書かないことに一度はしたのだが、簡単に書くと、「正しい」というのは単なる感覚の問題ではなく、理性が絡んだ概念だということだ。尊いや強い、清いという概念にはあまり引っ掛かりがなくても、「正しい」ということに引っかかる人は多いと思う。

あんまりこのことについての考察を書いても仕方がないのだけど、今思ってることを少しだけ書く。「正しい」人と「善い」人の違いは、正しい人には「強さ」があるが、善い人にはむしろ「弱さ」を感じる、ということだ。言葉を変えていえば、「正しい」人とは善い人で、強い人、といえばいいか。「善い人」には敵はいないが、「正しい人」には敵が多い。多分むしろ孤独だろう。しかしそれだけにカリスマ性も生じる。「正しい」というのは難儀なことでもあるが、それを貫ければ非常に強いことでもある。

いろいろ考えているうちに思い当たったのは、私は実はこの「正しさ」というものに非常にこだわりを持ちやすいタイプだということだ。「何が正しいのか」、と言うことを常に考えてしまう。これは「真実を追求する」ということとは違い、だからそういう意味で学者のメンタリティではない。真実であっても現実に摘要するためには不適切だ、ということが世の中にはいくらでもある。学者は真実はこうだ、といっておけば済むが、私はそういうことには不満を覚えるタイプだ。

これは釈尊の言う「矢の喩え」のようなこともある。矢で撃たれたときに誰が撃ったか、どんな人間か、どこから撃ったのか、などを詮索する前にまず矢を抜いて治療しなければならない、真実を追求する前にやるべきことがある、ということだ。これは、ただ単に順序の問題だけではなく、真実は知らない方がいいこともあったりするとか、いろいろな面で真実を知ることと正しいことは異なる、ということだ。そういう意味では「正しさ」という概念には学究的というよりは政治的な面があると言うこともいえなくはない。

で、昨日からいろいろなものを読み返しているのだが、こういうときには結構心にヒットするものがでてくる。で改めて、なぜその作品が自分の心にヒットしたのかということに気がつく。

一つは柴門ふみ『小早川伸木の恋』。主人公のノブキも、ヒロインのカナも、「人として美しいこと」「人として正しいこと」へのこだわりを持っている。自分の中にそれを持っていれば、大学病院という「動物園のような」職場にいても戦える、というようなことを言っている。このマンガ、柴門ふみの作品では『同級生』以来初めて単行本を買ったのだが、今思うとこういう主人公たちのメンタリティが大きいのだなと思った。

小早川伸木の恋 (1) (ビッグコミックス)
柴門 ふみ
小学館

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もうひとつはA・C・ルイス『ナルニア国物語』のシリーズ。私が特に好きなのは『カスピアン王子のつのぶえ』と『朝開き丸、東の海へ』の二作。カスピアンがおじの城を脱出するときに家庭教師の先生に言われる台詞がいい。「王子さま、カスピアン王。絶えず勇気一杯でいなくてはなりません。直ちにお一人でいかなければなりませんから。」勇気、というものが「善い人」になく「正しい人」にあるものだな、と思った。子どものころこの物語に夢中になったのは、もちろんドリトル先生もホームズのシリーズも好きではあったけど「ナルニア」の魅力には敵わなかったのは、ナルニアが「正しく生きる生き方」について書かれた本であったからなのだということに今更ながら気がついた。

カスピアン王子のつのぶえ (ナルニア国物語)
C.S. ルイス,C.S. Lewis,ポーリン・ベインズ,瀬田 貞二
岩波書店

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ナルニアの中でも言われているけれども、子どもはナルニアの世界を満喫できるけれども大人には出来ない、それは何も子どもの純真さが失われるから大人がナルニアに行けないということだけではなく、大人は現実の世界でナルニアで学んだ正義を実現していかなければならないという使命を持っているというメッセージがこめられているのだということに今回読み直して初めて気がついた。

夕方になってから日本橋に出かけ、何か読む本はないかと思って探してみたが、どんな本を読んだらいいのか見当がつかない。倫理や哲学や宗教の本をいろいろあさってみたが何も買わずに、ただ夕食の買い物だけして帰った。

***

もう一つだけ考えていることを書いておく。「清い」とはどういうことかと考えていたときに思ったことなのだが、「清い」というのはつまりは「欲望にまみれていない」ということなのだと思った。で、宗教ではキリスト教とかいろいろなところでそうだが、「欲望を少なくする」ことをいいこととして勧めている。「禁欲」の勧めだ。まあ昨今の歪んだ欲望の氾濫を見ているとそれもまた一つの方法かなとは思うが、人間は人間として、生物として生きているのは欲望があるからで、その欲望をあまりに制限するのはあまり健康的ではない。異常な欲望は矯正したほうがいいとは思うが、生物として生きるのに必要な欲望まで制限するのはあまりよくない。

それでは、欲望を持つ人間として生きつつ「清い」生き方をするためにはどうしたらいいのかというと、それは欲望が満たされることに「感謝する」ことにあるのだ、と思ったのだ。食べるという欲望を満たしたら食べられたこと、食べたもの、それを与えてくれた人、に感謝する。「いただきます」といって食べて「ご馳走様」といって終えるだけでも言い。基本的にこれだけは子供のころから呪文のように言うようにしている言葉だ。口に出して言わないことはあるけど。他の欲望でも満たされたときには感謝する。感謝の念を持つ。口に出す。それによって、欲望を満たされた満足感だけでなく、感謝の念を持ったことによる清々しさも得られる。一挙両得だ。

最近は涼しくなってきてよく眠れるから、起きたときに気持ちいい。自然と気候に感謝の念を持っているときがある。夏の間はなかなかそうはいかなかったけど。睡眠と食欲とかまあ他にも欲望はいろいろあるけど、満たされたときは感謝する、ということをしておくとたぶん精神衛生上も全然違うと思う。

そして一番肝心なのは、生きているということに感謝するということで、ほかのことは他の人やら難やら感やらに感謝することも出来るが、生きているということはまずは直接的な両親祖父母、先祖に感謝するとしても、最終的には「造物主」に感謝するしかなくなる。他に感謝する対象がないからだ。

で、なんで人間は神を作ったのか、神を必要とするのかということが分かった気がした。神というものを想定しないと人間は感謝する対象を失い、すべてを自分の力で行ったという思い上がりを必然的に生むからなのだ。思い上がらないために精神衛生上、精神平衡上必要なのが神という存在なのだ、と思った。

神というのはそういう意味で、国家と同じ共同幻想だという言い方も出来る。しかし、社会通念上国家は存在しているわけで、神だって社会通念上存在するといってもいい。「神は死んだ」と言い募るのは勝手だが、それは必然的に思い上がりの精神構造を持たざるを得なくなるだろう。国家は共同幻想であっても実力手段を持っているので国家はには従わざるを得ないと思う人が大半だとは思うが、神も時と地域によっては実力手段を持っているということは忘れるべきではない。実力手段を感じなければ実在が感じられないというのも貧しい話だが。

ま、そういうわけで「感謝」ということに多分人間の倫理にとって一つの重要なポイントがあるんだなということをつらつら考えているわけだ。感謝を肯定するということは、逆に言えば欲望を肯定するということでもあるわけだ。

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