手を抜こうとして返って難しくする/経済学という魔法の呪文/気取らず怠けず欲張らず

Posted at 07/08/30

昨日。久しぶりに小説以外の本を気合を入れて読んでいたら頭、肩、腰と全身が影響を受けた。早く読みきろうと集中しすぎるために、かなり無理なスピードで読んでしまう。そういえば一時いつもこういう体調の時期があったが、本の読み方に問題があったのだなと思う。多分もうちょっとだらだら読んだ方がいいのだけど、歴史の本というのはどうもいろいろなところを参照しながら読んだりして、よけいな集中力を使ってしまうのだ。どうせなら頭より手を動かして、大事なところをメモしたり何度も参照しているところを書き抜いたりしておけばいいんだよなと思うのだが、最初が「肩の凝らない読み物を読もう」という根性で読み始めているので、そういう読み方にならない。しかしそれだけ集中してしまうなあ、そういう読み方をした方が合理的なんだよな、と改めて思う。手を抜こうとして返って難儀になっている。

午後から夜にかけて仕事。相談がいくつか。最近思っていることをいくつかアドバイスする。最近はこの手の仕事が増えているが、まあシーズンということか。

ある雑誌を何の気なく読んでいたら、社会工学の専門家が「世の中のことのほとんどのことが経済学に関係していることに気がつき、経済学を勉強しなおした」といっているインタビュー記事があり、なんとなくカチンと来る。で、どう言うことを言っていたか。「ターンパイク・セオリー」というのが経済学にある。これは、一点から一点へ移動するとき、最短距離を行った方が早いように見えるけれども、実は少し遠回りに見えてもターンパイク(高速道路)を走った方がずっと速く目的地に到達できる、ということを言っている。特に学習の場合は、遠回りに見えても基本的なことをきちんと押さえた方が目の前のことをとにかくこなしていくよりずっと速く習熟する、ということを意味している。なんだかあたりまえというか、誰でも考えそうな話だなと思って読んでいたのだが、よく考えてみると「経済学」というのはそういうあたりまえのことを難しい言葉で理論化したものなのかもしれないという気がしてきた。

そういえば「収穫逓減の法則」とか、「パレート最適」とかも、そういう言葉で言われなくても最初から多くの人が無意識に考えていることではないかと思う。つまり、経済学というのは資源をいかに適正に配分するか、どうすれば最も効率的(つまり経済的)に目標を達成できるかということを研究する側面がかなり強いのだということに思い当たる。結局、市場経済を肯定したり、貨幣制度を肯定したりするのも、それが最も効率的だから、ということなわけで、ある意味常識を大仰な言葉で理論かしたものに過ぎない、と考えてもいいのかもしれない。いかにもアメリカ人が好きそうな学問、というよりスキルだ。ノーベル経済学賞がほとんどアメリカ人であるのもむべなるかな。

どうも私は経済とか経済学という言葉には「金の亡者」的な負の視点を持ってしまいがちなのだけど、きちんとした目的意識とか倫理的な観点を持った上ならば、価値中立的に考えてもっと活用できるものだと考えた方が自分自身にとっても生産的かもしれないという気がしてきた。問題は経済学そのものにあるのではなく、それを使って物を言っている人の側にある。そしてその「人」の文化的背景がアメリカ人、現代アメリカ文明であるということが、グローバリズムの問題の本質なのだろう。そういう意味ではグローバリズムの問題とはつまり「世界にとってのアメリカ」という問題そのものだということになる。

大体、私などもあたりまえのことを言うのに何で「ターンパイク・セオリー」だの「パレート最適」だの「カタカナ」で言わなければならないのか、ということに疑問や憤りを感じる方なのだが、しかしこれは実際に使ってみると魔法の呪文のように説得力をもつ。「高速道路を走った方が早いだろう」、というだけではあまり納得出来なくても、「これはターンパイクセオリーといってね」と呪文を唱えるとみんなたちどころに納得したような顔をしてくれるのでちょっと馬鹿馬鹿しくなる。歴史学をやっていたときも、統計を取って表に示したりすると説得力をもつ、と言われてそんな小手先のことで説得力と言うものが生まれるのかと思って馬鹿馬鹿しくなった経験があるが、説得力と言うものはあたりまえのことを麗々しく言い立てることで生まれると言う側面は多分確かにあるんだろうと思う。そういうことについ恥ずかしさを覚えてしまう私のような羞恥心のあり方は、説得力と言うものとは遠いところにいるのかもしれないなあとしみじみと遠い目をしてみる。「あたりまえのことを当たり前と認める、というところからすべてが始まる」と言うことなんだろうけど、どうもそれに羞恥心が絡んでしまうのが私の問題と言えば問題なのかもしれない。

現代はそういう意味では「経済学という魔法の呪文」で動いている時代なんだなと思う。それに対抗してイスラムの魔法の呪文やコミュニズムの魔法の呪文が唱えられているが、一般には経済学という魔法にかかっている人の勢力が圧倒的に強い。「科学という問題」については今までかなり考えてきたけれども、科学と言うカギだけでは現代と言う問題は解けないんだなと改めて思った。経済学と言うものも、自分なりに勉強してみなければと思った。

別の雑誌を読んでいて、野口晴哉の古い時期の弟子の人が書いている文章で、「頭寒足熱腹八分」が健康の基本、というのがあり、これを野口師は「気取らず、怠けず、欲張らず」と読んだのだという。「クールヘッド、ウォームハート」とは言うが、頭寒足熱で気取らず怠けずと言うのは面白い言い方だと思う。確かに考えすぎたりかっこつけたり悲憤慷慨したりしていると頭が熱くなってくるし、動くのを怠けてじっとしていると足が冷えてくる。食べ過ぎてしまうことの本質には欲張っていることがあるのもまたそのとおりだ。何を欲張っているのかは多少の違いはあるが。体調がこころに影響する、という側面は野口整体ではよく言われていたが、逆にこころの持ち方が体調に影響する、というのもまた事実で、それを持ってある種の心身一元論的な体系を作り上げたのだが、甲野善紀氏の日記を読んでいるとその後継者の野口裕之氏はそれを超えた心身二元論的な世界を展開しているそうで、どんな考え方なのかちょっとわくわくする。

でも考えてみたら、野口整体で言っていることも言わば「あたりまえのこと」かもしれないんだよなあと思う。多分仕事の要領とか、そういうことについては私は直観的に理解する方なのだけど、身体のことに関しては本当によく分かってないから、野口整体で言われるようなことには本当に感心してしまうんだろうなと思う。人の向き不向きと言うのはいろいろ複雑だが、「もともと得意なこと」を活かしていかない手はないよなあ、とは思う。

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