ゆがんだ欲望が生み出す悪夢:阿部和重『グランド・フィナーレ』/美しい欲望と良い本能
Posted at 07/07/16 PermaLink» Tweet
昨日。台風が通り過ぎている間はなかなか本を読むのも文章を書くのも手に付かず、テレビの前で杭を打たれたように動けない感じで相撲を見たりしていた。夕方少し動こうと思って外に出てみたがまだ雨が残っていて、早々に部屋に戻る。結局9時くらいに外出して地元の書店へ。いくつか欲しいと思ったマンガなどあったが、我慢。帰ってきて阿部和重『グランド・フィナーレ』(講談社、2005)を読む。読了。
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読み始めてしばらくの間は吐きそうだった。気持ち悪くて気持ち悪くて。「デジタルメディアによるコミュニケーションが一般化した二一世紀の今日にあってさえ、古城に幽閉されたお姫様との再会は困難極まりないというわけだ。」なんでこんな文体を読まされなければならないのか。こういう日常的な、というかネットの現状レポート読んでるんじゃないんだから、みたいな気色悪い言葉遣いが次々に出てくる。911が語られたり、チェチェン内戦が語られたり、モスクワ劇場占拠事件が語られたり、ウガンダの少年兵や少女のレイプの頻発などが語られる文脈もなんだかいやだ。そしてその嫌さの固まりのような中で主人公の自己中心的なモノローグが語られ、主人公がロリコン・幼児性愛者で教育関係産業に従事しながら児童ポルノを撮ったり売ったりし、モデルとその母親にも手を出しているという事実が明らかにされ、主人公が自分の妻と娘に近づくことを裁判所によって禁止されているのは全く正当だということがあきらかになり、正当かつ痛烈な非難を徹底的に浴びせかけられるところで第一部が終わる。
ここでこういう欲望の形態から抜け出せない主人公が徹底的に断罪されるのを読んで、読み手の側はカタルシスを感じる。そうか、「異常者」の自分勝手なモノローグだから気持ち悪いのだ、と納得がいくし、その「欲望から抜け出せない滑稽さ」を憐れむことさえできる。しかし作者は狡猾なので、主人公が「最低だ」とは言うけれども「異常だ」とは言わない。同様なことをされて死に追いやられた少女がいる、という話は非難としても有効なのだが、ある意味そこで「児童性愛」と「死」の概念が結びついてしまい、もっと厄介な複合体が生じてしまう、嫌な予感も生まれる。
後半はいわば主人公の「更生」の物語なのだが、郷里に帰って世の中から隠れて生きようとしていた主人公のもとに迫害によって固く結びついているのに小学校卒業とともに事情で別れなければならない二人の少女が現れ、事情を聞いてその二人が出る「勿忘草」の演出を引き受ける。二人が自殺サイトを見ていたことを知り、二人が死ぬのではないかと思った主人公は二人を自宅に呼び、「生きる」ことを伝えるメッセージをこめた贈物を送ることにする。
私はうかつなので、読んでた時は何でいい人になってしまうんだ?でもこういうのがいいのか?みたいなでも納得しようとすればできるな、みたいな感じになっていた。しかしネットでさまざまな批評を読んでいるうちにそんな単純なものではない、もっと「どす黒い」たくらみがこの小説の構造には仕込まれているのだということがわかってきた。
前半を読み終わったときに、これはサドの『悪徳の栄え』だったか『ジュスチーヌ』だったかについて澁澤龍彦だったかが解説しているのを読んだことを思い出した。つまり、悪逆非道?のサディズム的快楽を描いた作品なのだが、最後で「悪」が滅ぼされることによってアンシャンレジーム期の道徳と帳尻を合わせるという構造にしてあるのだが、目的はサディズムを徹底的に描写すること自体にある、という話だ。つまり最後に道徳的な徹底的な批判をすることで帳尻を合わせているけれども、「児童性愛者の自己中心的な歪んだ欲望」を一人称で描くことそのものが目的、という構造なんだろうと思ったのだ。
つまりこの小説がかなりのたくらみを持って書かれているということはこの時点で感じてはいたのだが、それがラストまで読み終わったときにはあまりピンときてなかったのだ。最後に「いい人」になってしまう記述が続いているのでなんとなくハッピーエンドみたいな幻想にしてやられてしまったのだと思う。これでは「これからは北朝鮮と日本を行ったり来たりすればいい」みたいな拉致被害者を日本に返したときの北朝鮮側の猫なで声の言い草にだまされた「善良な日本人」みたいになってたな、と思った。
なんというか、後半の書き方の構造が今でもきちんと読み取れてるとは言いがたいのだが、表面上まともな善意に満ちた美辞麗句を重ねるけれどもそれは「歪んだ欲望」あるいは「犯罪常習者」が自己正当化するときの常套手段のようなもので、まともなことを言い続けることによって警戒心を緩めさせ、そのそこにある極めてヤバイものを隠蔽するという作戦が客観的に、ではなく一人称で語られているところがヤバイというか戦慄するというか、この阿部和重という作家の力量なのか壊れている部分なのか、みたいなことまで考えさせられる。そこまでコワくはないがそういう書き方をしてみた小説を書いてみたこともあるのだが、これは相当自覚的に細心の注意を払ってやらないととんでもないことになるんだなということがよくわかった。多分ヒトラーの『わが闘争』などのオルグ文書もきっと似たような構造になっているのだと思う。
ネタばれ的になってしまうが、後半部分は表面上は「更生した」話になっているのだが、その裏に大変「危ない話」も読み取ることが可能だという二重構造になっているのだ。「更生した」話としても全く破綻なく進んでいるからうまく騙されるし、歪んだ欲望の復活と再現のための口実を全く「人道的」に獲得していく過程とも取れ、その両方の「グランド・フィナーレ」が読み取れるところに意味があるのだろう。しかし読み込めば読み込むほど「悪夢の再現」の方に引かれてしまうのが作者のたくらみだろう。
しかし、小説としてはそうだが、現実としてはどうなのか。犯罪常習者というのはものすごく言い訳が巧みで非常に説得力のある話し方をする、と言う話はよく聞く。福本信行『銀と金』にそういう殺人常習者が出てくるのを思い出した。そして、我々は「いい話」の方を好むのだ。それが日本人の性癖なのか世界中でそうなのかは分からないが、なるべくものごとを「いい話」として理解しようとする。
その極端な例が光市の母子殺人事件だろう。あの事件は被害者の夫であり父である男性が全精力を傾けて当時未成年の殺人犯を正当に断罪されることを主張しているのだが、「人権派」の弁護士が総力を挙げて聞くに耐えないお涙頂戴の、しかもあちこちで破綻している話をでっち上げ、世間の強い顰蹙を買っているが、あの話ですら被害者遺族の彼があれだけ本気で頑張らなければどちらに転ぶか分からないくらいの情勢になっているわけで、ある意味犯罪者にとって天国のような状況が司法によって作り上げられている。その根底には人間についての話は「いい話」として理解するべきだという神経症的なまでに楽観主義的な近代的人権思想があるということは指摘するまでもないだろう。そういう意味ではこの小説の射程は病的な人権思想の批判にまで行き着く可能性がある。
読んでるうちに小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』で坂本弁護士失踪事件に関し、オウム真理教の犯行であることを「決めつけはいかんよ、決めつけは」という台詞を重ねながら雰囲気的に断定していく過程を思い出した。
小説の構造についてだけ考えてもこれだけのことが出てきてしまう阿部和重とはどういう人なのかとちょっとネットだけでなくいろいろ調べたら、2005年に芥川賞を受賞したこの作家は既に2000年に発行された福田和也『作家の値うち』(飛鳥新社、2000)で取り上げられていることが分かった。この本で取り上げられてその後で芥川賞を受賞した作家は2000年の町田康と阿部の二人だけなので、阿部が作家生活がかなり長くなってから芥川賞を受賞した人物だということがよくわかる。その点を、「村上春樹や島田正彦に芥川賞をあげ損なった」トラウマの現われだと指摘しているものもあってなるほどとは思う。芥川賞まとめというサイトを昨日見つけたのだが今までの芥川賞受賞作品、候補作、その選評が一覧にされていて非常に便利だ。村上春樹は1979年と80年にいわゆる「初期二作品(風の歌を聞け、1973年のピンボール)」で候補になっているが結局受賞していない。そのときの選者は井上靖、吉行淳之介、遠藤周作、大江健三郎といった面々だが、やはり村上の後の文学活動を見ると「見る目がなかった」という評価は免れないだろう。まあそういう「政治的」な思惑はどうでもいいといえばいいのだが。
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とにかくこの本は特に最初の方はものすごく読みにくかったので、一体なんでこんなに気持ち悪いのだろうといろいろ考えながら読んだ。「読む」という決意がなければ絶対最後まで読んでいない。まずは「自己中心的な記述」だということが大きいのだが、もう一つは「欲望」に関する記述だからだ、というふうに思った。
自分が今まで読んできて面白いと思った作品、いいとおもった作品は基本的に「生きる」ということ、言葉を変えて言えば「生存」という「本能」に関わるものだったと思う。「どうやったら生き延びられるか」、という問題だ。私にとっては客観的にはどうあれ子供のころから今に至るまで「どうやったら生き延びられるか」が最大の問題であり続けたことは確かだ。それは暴力を遠ざけることや金銭を獲得することだけにとどまらず、自分の存在を脅かす「つまらない仕事」や「ねじくれた人間関係」を遠ざけることをも含む。しかし実際のところ暴力や仕事や人間関係や金銭というものから完全に離れることは人間としてこの世界に生きる以上不可能なことだから、それとどういうスタンスで付き合うのか、という問題から逃れることはできない。どういう付き合い方が自分にとって可能かということは自分の奥底まで降りていかないとぎりぎりのところがわからないから、そういうことを考えさせられる作品が自分にとって面白いと感じられるものだったのだと思う。中村文則『土の中の子供』などはその典型だ。
それに対してこの『グランド・フィナーレ』は「性愛」という「欲望」に関するものだ。私の感覚では、「生殖」は本能だが「性愛」は欲望だと思う。「摂食」は本能だが「美食」は欲望だ、というのと同様に。私は本質的に本能には関心があっても欲望に関してはやはりあんまり関心がないのだなあとおもう。名誉欲とか金銭欲とか言うものもないわけではないけど、それは結局はそれが生き延びられる手段であるかどうかということが問題なのであって、そのこと自体は多分本質的にはどうでもいい。それはそれとして得られれば楽しむとはおもうけど。生存と生存の延長である種の保存だけが本能で、あとは欲望だというのが自分なりにはすっきりした理解だと思う。その欲望に関することなので、どうも自分自身にとってそんなに切実な問題としてとらえられないところが出てくるんだなあと思ったのだ。
現代というのは「欲望」の時代だと思う。特に日本では、「生存」は一部の問題としてとらえれらていて、「かわいいもの」とか「萌えるもの」をはじめとする欲望が先行し、消費の対象として煽られるだけ煽られている。生存の問題が軽視されているから「いじめ」などの生存に関わる問題が続発することになっているのだと思う。そういう意味では少子化なども同じ延長線上の問題だろう。
ただ欲望にもいろいろな種類があるわけで、比較的無害な「かわいい(はあと)」のようなものから幼児性愛や児童ポルノのような他者への強い攻撃性を孕む犯罪的なものまでさまざまある。欲望を持つこと自体が正当であると肯定する傾向が現代社会で強いのは資本主義社会を動かす根源が欲望である以上仕方のないことではあるが、それは同時にそのような反社会的な欲望の立ち上がりという事態に直面せざるを得ない。欲望だけを基準に考えれば「なぜ人を殺してはいけないか」という問題にさえ答えることはできない。
欲望というものは本質的に滑稽なもので、『グランド・フィナーレ』の前半の終わりで自分の侵した罪を自覚させられる主人公を憐れに感じるのもその欲望に振り回される滑稽さゆえだ。その滑稽さは本質的に「かわいい」物を求めたり「萌え」を追求したりすることでも変わらない。無害であり資本主義社会に適合的であるがゆえに許容されているだけだ。アニヤ・ハインドマーチのエコバッグの争奪戦など滑稽そのものだが、多分それを滑稽といわれること自体が我慢できない人もたくさんいるだろうと思う。
しかし、欲望は常に滑稽かというと必ずしもそうではない。「よく生きたい」という欲望は滑稽ではないからだ。つまり、倫理というものは欲望が純化され、美を備えるようになった欲望の形だということだと思う。私は子供のころ白虎隊の行動にものすごく感動したことがあって、大学生の頃つきあっていた彼女にその話をしたら「子供のころは右翼だったんだね」といわれたのだが、まあその人はフェミニストだということを後になって自覚したのでそういう反応なのかなという気もするが、つまりは自分を超えたものに命を賭ける、というのが倫理なのだと思う。タイタニックが沈没するときに女性や子供を救って男は沈んだというのも倫理だし、「おくにのため」に身を捨てた特攻隊も倫理だし、『プライベート・ライアン』を救出するために奥地に赴くのも、自分だけ救われることを拒否するのも倫理だ。
倫理を欲望の一形態だという理由は、倫理というのはそういう形で時に生存本能を超克することを要求するからだ。「命を捨てでも実現したい正義」というのはある意味欲望の究極だろう。それは生存本能にとってはとても危険なことだ。とても美しいことではあるのだが。
そこまで究極ではなくても、結局倫理というのは欲望を「生存」というものと関わらせることによってその滑稽さを昇華し、磨き上げて美しいものに育て上げたものということができるのではないかと思う。私は倫理というものに対して欠落感があるのだが、それは欲望ということに対する関心の低さとも関係があるのだろうと思った。
ただ、欲望の側から見ると本能というものもあまりよくは見えない。とにかく生き延びることに狂奔する有様は浅ましいとしか言いようがないだろう。もっと人生は美しく、楽しく生きることができるじゃないか、ということが欲望の側の言い分としては当然ありえる。
その本能というものが欲望と出会って昇華されるとしたら、それは命を慈しむ、というということではないかと思う。自分の生存の延長線上で他者の命をも慈しむということだ。たとえば母性本能とか責任感とかそういうものだ。それは時に自分の欲望を犠牲にしなければならないことでもあり、欲望の側から言えば危険なことだろう。それこそが人生を「善く」生きることで、もっとも洗練された欲望が美であるとしたらもっとも洗練された本能が善である、といってもいいのではないか。
そういうふうに考えてくるともっとも洗練された理性が真である、なんてことにも話は進みそうだが、とりあえずそれは置いておく。
まあいろいろ書いてきたがつまり小説には本能型の小説と欲望型の小説がある、とでも言えばいいか。もちろん人間の中のことだしそんなにすぱっと分けられるものでもないし、また小説の好き嫌いもそれだけで分けられるものでもないが、こういう考え方も小説の現状というものをとらえる上ではひとつの導きの糸にはなるのではないかと考えたのだった。
私は寝る前に本を読む習慣があるのだが、最近本ばかり読んでいるので寝る前にあまり読みたいと思わなくて就寝儀礼に困っている。一昨日は永井豪のマンガの『神曲・地獄編』を読み、昨日は『神皇正統記』を読んだ。どうも浮世離れしたものがナイトキャップならぬナイトブックには良いようだ。
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