しょっぱい関係/ゴージャスな憎しみ(大道珠貴『しょっぱいドライブ』/松浦寿輝『花腐し』)

Posted at 07/07/13

雨がよく降る。止んだと思って油断していると、また強く降り出す。台風も近づいているらしいし、スカッと晴れるのはまだしばらく先になりそうだ。

朝からしばらく仕事場で仕事をして、午前中に自室に戻って本を読む。本を読みながらいろいろ考える。

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大道珠貴『しょっぱいドライブ』(「文藝春秋」2003年3月号所収)読了。

しょっぱいドライブ

文藝春秋

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なんというか、しょっぱい、と思った。主人公の女性の造形は、30になって地方劇団のスターと初体験し、今は60過ぎの初老というよりは老人じみた男と同居しているようないないような、という、私には思いつかないようなもので、でも多分実際にはそういう女性もそういう男性も星の数ほどいるだろう、というようなもの。若いうちからとんでもなく外れていくわけでもなく、世の中に順応しているように見えてだんだん普通とは違う方向にずれていく、みたいな感じが共感できる部分もあった。

そういう関係というのは、たとえばヨーロッパ映画などにもあっても不思議ではない感じなのだけど、日本、特に日本の地方が舞台になるとどういうわけか貧乏くさいというかあわれな感じになる。負け犬の傷の舐めあい、というふうに感じてしまうのは、日本人の自我の殻の弱さのようなもののためか。日本人には苛立ちのパワーが足りない、とでも言うのか。

ただでも、この作品が嫌いかというと、そんなことはない。うざったい、というかこの初老の老人の造形が基本的に気持ちが悪いとは思うし、なんというかある意味ろくなやつがひとりも出てこない話ではあるのだけど(いや皆それなりに市民生活を送っているのだから堅気ではあるんだが)、女のある意味自堕落なところや最後にたどり着いた?場所を守ろうとする?老人のいじらしさみたいなものはなんというか確かに頑張れと言いたくなる。終わり方に希望があるから読後感がいいという小説の典型かもしれない。

それからもう一つは繰り返しになるがこの主人公二人の設定なんだなやっぱり。コキュの初老の男と30過ぎの未婚の女が、世間の狭い田舎町でどこに行くともなくドライブを続けるという設定は、不気味で悲壮で馬鹿馬鹿しくて滑稽ででも絶対にありそうな話で知り合いに見つかったら何を言われるかわからない、ある意味覚悟のいることであることは確かで、しかもそんな覚悟があるのかどうかも微塵も分らず、それは何か一時的なものであってもおかしくなく、また続くものであるかもしれない、なんとも「高速バスの中でおなかに入れた夏みかんの房の部分が歯にはさまっている」みたいな感じなのだ。やっぱりこの設定自体が何かの希望なのだ。誰にとっての希望なのかはよく分らないが、こういうものもあり、ということに救われるのは当事者もそうであるし、また当事者以外の人にとってもそうではないのかという気もする。なんとも定義しづらい、考えれば考えるほど不思議な部分が出てくる小説だ。

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松浦寿輝『花腐し』(講談社、2000)表題作読了。

花腐し

講談社

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今まであまり読まなかった傾向の小説で、最初はどう世界に入っていっていいものか、戸惑いがあった。世界に馴染めるようになったのは主人公が崩れ落ちかけたようなアパートの一室に招き入れられたあたりで、読み進めば読み進むほど世界を気に入っていく。最初はすかしたような感じでちょっと反感を持ったのだが、これはまあ私が初めての作家の作品を読むときの癖みたいなものだなと最近は思う。とりあえず反発を感じ、読み進めていくうちにそれが乗り越えられていくこと自体が最近けっこう面白い。反発のままで終わってしまうことももちろんあるけど、最近ではむしろそれは自分が読めてない部分があるんだろうなという反省にもつながる。しかし次から次に読んでいるのでピンと来なかった作家の作品のほかのものを読むというところまで手が回ってないけれども。

この小説も、最近読んでいる他の小説のように貧乏くさいのかなと思いつつ最初は読んでいたのだが、アパートの奥の部屋にマジックマッシュルームでラリっている茶髪の全裸の少女が出てくるに及び、印象ががらっとゴージャスに変わった。多分このあたり、もっとオタクっぽい書き方をしてたらそういうのが出てきても返って貧乏くさくなったと思うのだが、ゴージャスなものを感じさせるのは作者の才筆なのだと思う。

作中「修羅場」、という言葉が出てきて、会社を立ち上げて軌道に乗せている最中をその言葉で表現されていると、その言葉がまたとても意味のあることばのように感じられて、たとえば今私がこんなふうに必死に小説を読みまくっているのもある意味修羅場なんだなと思うとなんとなく落ち着くものがある。修羅場はとにかく前に進むために必死で乗り越えなければならないもの、と思うと女性関係の修羅場も懐かしく思い出されるが、そういう場面はもっと情けなく腰砕けだったなあと苦笑させられる。松浦の体質はやはり格好付けなので、格好付けてはいられない場面を修羅場と呼ぶ呼び方に共感するといえばいいのかもしれない。いずれにしてもとにかく前に進む力が必要なのだ、そういう場面では。

読んでいる途中で分ったが、この話が格好よくスタイリッシュでゴージャスなのは、男と男の話であるからだ。だからハードボイルドというかなんと言うか、チャンドラーの『ロンググッドバイ』だのフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』だのの感じを思い出すのだ。そういえば『NANA』が面白いのは基本的に女と女の話だからだな、と思った。同性同士の関係がストーリーの中心になるほうが、ストーリーに緊張感が保たれ、貧乏くさくもうざったくもならないということなのかもしれないと思った。逆にいえば恋愛ものを書くというのは現在では本当はとんでもなくハードルが高いことなのかもしれないという気もした。

もうひとつはそれとも関連するが、愛よりも憎しみや怒りというものについて書いてあるからだ。愛を格好よく書くのは多分現在ではかなり難しい。憎しみも書き方によっては相当うざったくなるが、淡白な抑えた感じで書いているのでそうはなっていないし、適度に愛の話が混ざってくる(愛がなくて憎しみだけというのも書きにくいだろう)から救われるところもあり救いが無くなるところもある。『ギャツビー』や『ロンググッドバイ』も、女性が出てくるのは別に通俗性を出すためだけではなく、憎しみや悲しみや狂気といったものを際立たせるために愛の話が絡んでくるということはある。また登場人物を造形するのにやはり愛に対する立ち位置のようなものが重要になってくるということはあるだろう。

ラストはこの話どのように終わるのだろうと思ったのだけど、読んでいて思い出したのは今でもどういうことなのかよくわからない坂口安吾の『白痴』のラストだった。しかし思い返してみると『花腐し』のラストはわりとはっきりしたハードボイルドかもしれない。もう少し長く書いても書けそうというか、もう少し長く書いてほしかった気もする。地上げ屋のオヤジの話とか、主筋とは関係ないがもっと知りたい、と思った。

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あとは笙野頼子「なにもしてない」の続きを読んだり、オルハン・パムク『わたしの名は紅』の続きを読んだり。「なにもしてない」は6割ほど。皮膚病の治療の描写がなんだかいい。その前の悪化していく描写がなんだか凄いせいもあるが。「わたしの名は紅」は90ページまで。617ページなのでまだ先は長い。どうやらメインになることの一つはカラとシェキュレの関係だということがだんだんわかってきた。それにしてもストーリーの息が長い。「わたしの名はカラ」「わたしはシェキュレ」のように章の題名がついていて、その章の中ではカラやシェキュレが一人称で語る、という形になっている。したがって主要な登場人物の名がついた章は同じ題名がいくつもある。「わたし」は人間だけでなく、「わたしは犬」だったり「わたしは馬」だったり「わたしの名は紅」だったりするわけだ。イスタンブールの有力者やその家族、細密画師の世界、絵の中の世界などさまざまな「視点」から物語を紡ぎだしていく。もう一つの筋は殺人事件で、「わたしは屍」で話が始まり、「人殺しと呼ぶだろう、俺のことを」が何度も出てくる。この謎解きもまた、読者の興味をつなぐ一つの糸になっている。

仕事は少し活気が戻ってきて、少し疲れた。今朝は起きてセブンイレブンにより『コミック乱ツインズ』を買い、仕事場で仕事。

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