自分を笑い飛ばすことへの恥じらい:笙野頼子『二百回忌』

Posted at 07/07/12

昨日。雨が降ったり止んだり。降っているときは相当強く降っていたし、止んでいてもすぐパラパラ来た。今朝は晴れるぞ、という感じの空気の気配。前線が通過したということかな。降らないと困るところもあるのではあるが、やっぱり晴れてほしいと思う。

笙野頼子『二百回忌』読了。これは相当面白かった。なるほどこういう作品を書く人なのかと納得。今まで読んだほかの作品はすべて、何が面白いのかよくわからない滑った感じが強かったのだけど、これはちゃんと笑いのツボにはまっている。そしてそれがエスカレートしていくドライブ感。微妙に違うことは違うけど、こういうものを目指していたんだよな80年代はそれこそ、みたいな感じがあった。分る分らない以前に、笙野の作品を「面白い」と感じることは相当難儀なことだ。彼女の作品は面白いと思えなければ何がなんだかわからない。宮本輝が芥川賞選考会で「何が悲しくてこんな作品を読まなければならないのか」と言ったというが、笙野の作品はツボにはまらなければ何がなんだかわからない、しりあがり寿的な面白さなのだと思う。

笙野頼子三冠小説集 (河出文庫 し 4-4)

河出書房新社

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笙野の作品を紹介してくださった方に「筒井康隆の影響が強い」といわれたのだけど、それはなるほどと思う。ただ私は筒井作品はあまり読んでないので(まともに読んだのは『文学部唯野教授』とその続編くらいかもしれない)はっきりはよくわからないのだけど。

「顔かたちのぼんやりした老人」という描写がしりあがり寿風。男女の役割等がひっくり返る徹底した無礼講の描写は民俗学的ですらある。こういうあたりが彼女の日本の中世世界への関心につながっているのだろう。「あのうもしかしたらあなたはワタクシのおかあさんですか」という『ねじ式』のパロディ。家が蒲鉾で出来ているというのはこれもしりあがり寿の玉入れの籠を支える棒がごぼうで出来ていたというのに並ぶくだらなさ。建物など「しっかりしている」と思い込まれているものに食べ物が使われているというギャグが何でこんなに可笑しいのか。建物を食うというシュールさに直結するからだろうか。ヘンゼルとグレーテルの「お菓子の家」というのも同一線上か。そういう意味ではこの発想は民話的・民俗学的ということになるなあ。

主人公の女性が急に凶暴化して暴れだすところも可笑しい。「ふふふーん、この体は四十キロないなー、私の半分やないか。」「これみなさん、なんと珍しいっ、なんと、めでたいっ。これがフェミニストや。普段はこんなことありませんぞ。」というやりとり。主人公(かなり作者自身に重なっている)も、「男の権威」も、無礼講も、フェミニズムでさえも、徹底的に笑い飛ばされている破壊的なおかしさが最高だ。笙野という人の作品は、「自分自身を笑い者にする」という芸に関して、実は非常に禁欲的なのだと思う。恥じらいといってもいいけど。でも、いやおそらくはだからこそ、こうしてひとたび笑いものにするとすごい破壊力を持つ。自分自身とフェミニズム(明らかに笙野はフェミニズムを信奉しているし、主観的には強力なフェミニストだ。まわりがどう思ってるのかはいまいち謎だが)をも笑い飛ばしているからこそこの作品のつきぬけたおかしさが存在し得る。いつでもそれを笑い飛ばせるとは限らない微妙さが、多分笙野のとらわれというかこだわりというか存在証明というか無限に作品が出てくる源がその辺にあるのかもしれないとも思う。

ナマハゲのパロディは微妙だが、「空の上方では雷が一層強く鳴り続けた。その音とともに一族と同じ真っ赤な喪服を着た、凄まじい程の美少年が三人、地面からゆっくりと生えてきていた」というところはすごいと思った。ストレートに作者の欲望が表出されている。無意識のつもりだろうけど。ここまでてらいもなく自分の恥ずかしいところをさらせるのも無礼講作品ならではだ。こう言うものが書けるというのが彼女の本質的な凄さなんだと思う。

***

押入れの中を探っていたら昔の文藝春秋が出てきて、そのうちの一冊が芥川賞作品の発表号で、大道珠貴の「しょっぱいドライブ」が掲載されていた。あとで読んでおこうと思う。

しょっぱいドライブ

文藝春秋

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