佐藤優『国家と神とマルクス』/左翼言説への反感の根源

Posted at 07/07/11

佐藤優『国家と神とマルクス』読了。

国家と神とマルクス―「自由主義的保守主義者」かく語りき

太陽企画出版

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昨日は「Ⅰ それでも私は戦う」「Ⅱ 国家の意思とは何か」のところまでの感想を書いたので、今日は「Ⅲ 私は何を読んできたか」「Ⅳ 日本の歴史を取り戻せ」「Ⅴ 国家という名の妖怪」「Ⅵ 絶対的なるもの あるいは長いあとがき」について。

Ⅲについては、特段の感想というほどのものはないが、佐藤が柄谷行人『近代文学の終わり』、宇野弘蔵『経済原論』などを重視しているということはよくわかった。

Ⅳは大川周明論と『神皇正統記』論が中心なのだが、佐藤の論の立て方はなかなか面白いと思った。このようにとらえる人が他にいるのかどうかよくわからないが、大川や北畠親房が権威・権力分離論のある意味融通無碍な形を日本の国体ととらえているのに対し、蓑田胸喜は「惟神(かんながら)の道」一本でむしろ西洋近代思想的な排他主義、ロマン主義だという指摘は整理の仕方として私には分りやすいと思った。また『愚管抄』が「百王説」の受容などに、中華思想への同化、つまり当時のグローバリズムへの同化が見られるという指摘も面白い。

日本の思想というのは国家論がある意味あまり存在しないので、なかなか考えにくいのだが、私は個人的には『神皇正統記』は読みやすく、好きな本なので、読んでいて興味深い点が多かった。彼の左翼思想論は後半かつ深いところ、また微に入り細を穿つところがあってとてもついていくのが難しい。まあそれは私が根本的にあまり興味がないからなのだが、それでも佐藤の説明を読んでいるとまるでそういうものを分ったような錯覚に陥らされるところがある。用語は面倒だけど私の理解の範囲内ではあるし、またマルクス主義信仰を共有する人にしか通じないような論理の使い方がまったくないので非常に分りやすい。しかしまあ読んでて遠いところでやってる議論だなあという感じがあるのだけど、日本の国体論についてはいろいろ聞いてみたいと思ったりこのへんは自分はどうなんだろうと思うようなところがある。考え方が違うところはやはりあるのだが。

Ⅴはまさにその左翼思想論。なかなか読むのが大変だが、いろいろな問題提起がちりばめられていて、この当たりのことをきちんと考える必要に迫られたときにはもう一度読んでみたいとは思う。

高橋哲哉の『靖国問題』を批判していて、「靖国信仰から逃れるためには、必ずしも複雑な論理を必要としないことになる。一言で言えば、悲しいのに嬉しいと言わないこと、それだけで十分なのだ」という言説に対し、「悲しみを無理をしてでも喜びに変えるところから信仰も文学も生まれる」、と主張する。悲しみを悲しみのまま持ち続け耐えることができるのは一部の選民に過ぎない、という。

このあたり、高橋の言説に対する私の反感の生まれてくるところの一つを指摘しているように思った。高橋というよりも、最近の左翼言説一般に対する反感だが、つまり彼らの主張は信仰も文学も否定し、彼らの思想を押し付けているに過ぎないように思われるという点だ。この「高すぎる倫理基準」に関しては、私も若いころさまざまな左翼言説と格闘する中で「この倫理は私には受け入れられない」と敗北感とともに認識せざるを得なかったことが度々あるので、ちょっと恨みのような感情が伴う。彼らはこの一方的な倫理の押し付けをオルグに利用してきていて、それに理論的に反論できなかった私は「倫理的闘いにおける敗北者」であるかのような屈辱を押し付けられたという思いだ。「七三一部隊」「南京虐殺」「従軍慰安婦」「靖国参拝」などに関して私が冷静でいられなくなるところがあるのは、そのような屈辱に対する激昂的な感情なのだなと再認識した。多分そのあたりの言説の倫理的操作によって傷ついて左翼思想全般を感情的に否定しようとしている人たちは潜在的にかなり多数に上ると思う。現代における反左翼感情は、そういう情念的な部分がかなりあるのではないか。まあこのような敗北的感情を記述しようという人はあまりいないだろうからまあマグマ的なもので余計見えないのだろうが。

Ⅵは全体のまとめ。ヘーゲルの『精神現象学』について、独特のユーモアがあるという指摘が面白い。頭蓋骨の形と思想への影響についてさんざん考察したあと、関係がないという結論に達する、というくだりだ。このあたり、難解なドイツ語と格闘して何かを得ようと頑張った人などはユーモアどころではない、怒りを爆発させるのではないかと思ったが、思想家の書くことというのはときどきそういうどう解釈したらいいのか困ってしまう笑いにくいユーモアのようなものがあるときがある。そういうのはニーチェを読んでて感じたこともあった。

マルクスが、人間は表象能力があるので本来関係ないものを関係付けてとらえてしまう(佐藤は星占いなどをその例にあげている)という指摘はなるほどと思う。元総理の娘で大金持ちの女性代議士をそのパフォーマンスによって「庶民の代表」などと考えたりする類の誤りがそれだ。政治というのはある意味そういう錯覚で成り立っているところがあるのは確かだ。

全体を読んでみて、佐藤という人は本当に非常に広汎な思想について自分なりにとらえ、まとめて何が役に立つのか考えてきた人なのだと思う。それが学者ではなく外交官・情報官という実行者であったことが彼に特異な位置を与えている。ある意味学生時代に熱中した呉智英のような広汎な思想の渉猟者であると思うが、呉智英の方がより観照的であり、佐藤優の方がより行動的だと思う。もし私が今20代だったら彼の書くものを相当追いかけただろうという気がする。(実際にけっこうフォローしているけど)

ただ、いつも読んでいて思うのは、私は思想とか理論というものにあまり根本的な関心がないんだなあということだ。原罪論や救済論、また仏教の苦に関する議論なども物語的には知りたいと思うし興味はあるけど、物語の枠を越えてまで思想的に深めたいという感じがない。白虎隊の士道に関する高度な倫理に非常に感銘を受けるけれども、だからといってその思想的支柱を知りたい、とあまり思うわけでもない。

自分が思想として読んで共鳴できると思ったのは反デカルト主義のヴィーコと保守思想家のオークショットくらいのもので、自分の思想的課題のようなものはけっこうこれだけで片付く。自分にとってより大事なのは身体論とか表現論とかあるいはそこから導き出される倫理のようなものだ。

高橋に対する佐藤の批判を読んで思ったこと。思想というものは物語を作るわけだが、その物語は文学が作る物語と基本的には相容れないものなのではないか。このあたりの部分に関しては私にはまだわからないことが多いので論は展開できないが、漱石が『こころ』のなかで書いている、「先生」が「精神的に向上心のないやつは馬鹿だ」という思想的・倫理的な言葉で「K」を追い込み、最終的に死に追いやる描写は、結局はそういうことを批判しているのではないかと今思った。まあもともとKの言った言葉のブーメランではあるのだが、Kの倫理的自意識の高さを逆用しているところが左翼のやり方と共通しているのではないかと思う。

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