長島有「サイドカーに犬」/「猛スピードで母は」を読んで「いじめ」について考える/綿矢りさ「蹴りたい背中」
Posted at 07/07/06 PermaLink» Tweet
昨日の午後。昼食を取ったあと、久しぶりに図書館に出かける。火曜に読んだ『papyrus』や『創』で近々公開される映画として『天然コケッコー』(くらもちふさこ原作)などと並んで『サイドカーに犬』(長島有原作)が紹介されていたのを思い出し、そういえば今考えていることをするためには近年の芥川賞作品などを読むこともあるなあと思ったのだ。で、長島有『猛スピードで母は』(「サイドカーに犬」を所収)(文藝春秋、2002)、綿矢りさ『蹴りたい背中』(河出書房新社、2003)を借りる。そうか『蹴りたい背中』ってもう4年前の作品なんだ。
『猛スピードで母は』は「サイドカーに犬」と表題作の二本所収、双方100枚程度の作品。最近、どの程度の枚数ならどの程度の展開があってどの程度の描写でどの程度の人物像を描いているのかとか、そういう技術的なことが、自分が書いているせいもあって気になる。「書きたいもの」が先にあってそれにふさわしい形式を探すという感じではなくて、先にある程度の形式を自分の中で決めてから自分の中にそれにふさわしい「書きたいもの」を探す、という感じが少しある。「書く」という行為は、書きたいものがあるということが動機になっているわけでは必ずしもなく、とにかく「書きたい」ということが動機なのだ、という感じが最近よくわかる。書くという行為は具体的だが、書きたいものというのは抽象的なのだ。その抽象的なものをどう具象的な作品の中で料理するかが問題なのであって、そのためには煮る・焼く・蒸す・その他の技術をまず身につけなければならない、という面があるのだ。「牛肉が食べたい」という動機よりも、お客さんが何人で、どう言うシチュエーションでの食事で、と言った外的な条件から料理を決めていくという感じに近いといえばいいか。
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「サイドカーに犬」はとても好きな作品だった。こういうさわやかな作品が書きたいな、と思う。近年の作家の作品の中では感覚的には一番好きかもしれない。終わり方なども上手いし、人物の対比がコントラストが強すぎたり、麦チョコばっかり食べてるところなどちょっと人工的なところはないわけではないのだけど、全体的にこういうことってあるよな感が私にはとてもしていい。私より10年若いその微妙な世代感覚のズレも面白いなと思う。
この作品は文学界新人賞受賞作だ。ということは、アマチュア時代に書いた作品ということになる。これくらいの作品が受賞レベルなんだと思うと、目標が定まっていい。なんだかんだいっても、私などよりはずいぶん作品を書き込んでるんだなという感じがする。技巧とか表現の達者さがあるといえばいいか。また作品を書く上での問題にぶつかったときに動じなさとか動じてもそれを隠す隠し方の上手さとか、そういう物に手練れを感じるといえばいいか。
セリフとト書きを一行で書き、次のセリフでまた行を変える、という書き方は私も前の作品で試したが、そういう技術的なところもいろいろ参考になった。
「猛スピードで母は」は芥川賞受賞作。私としては「サイドカーに犬」の方が好きは好きだが、同じ子どもの視点からでの作品(つまり子どもが狂言回しで個性的な女性を主人公に描いているという描き方)でも、子ども自身が困難に直面し、また母も困難に直面し、ある意味一緒に困難をともにしていくという感じが、物語に厚さを加えているということは言える。ただ展開がちょっとたるいところがあって、でもそれが必要な側面でもあるのかもしれないとも思う。
私はこの題名のつけ方のセンスが実は余り好きではなくて、それで長島の作品は敬遠してきていたのだが、読んでみると実にシンプルで好感がもてる作品で、ちょっとそのギャップに驚いた。表紙のイラストも私の趣味とは微妙にずれるし。なんていうかある種ヨーロッパ映画みたいな題名のつけ方で、でももっとシンプルな題にしてしまうとあんまり毒がなくなってしまうのかもしれない。
本題とそんなに関係ないけれども、「猛スピード…」のほうは最後でいじめのシーンが出てくる。マンガとかではよくハードないじめのシーンが出てきたりするが、私はそういうものはあまり現実感がなくて大変だなあくらいにしか思えなかったのだけど、このいじめのシーンはリアリティがあった。ものを持って来いとかこわい階段に上れとかその手のヤツだ。自分はそういうのをやられた覚えもないけどなあ、と今考えていたらその程度のことはやられたかもしれないという気もしてきた。つまり忘れる程度だ。
というのは、思い出せる範囲では、そういうことをやれと言われても合理的に許容できる範囲では対応してやったりイヤなときには反抗したりしたからだ。言葉で嫌なことをいわれたりすることはよくあったけど、よく考えてみたらそれはいじめというほどのことではなかったかもしれない。自分の中では言葉で言われたことは嫌な思い出がけっこうあるのだけど。ただ今になってみるとそれをいわれたのがなぜそんなにイヤだったのかわからないようなことだったりもするが。
小学生のころ言われて一番いやだったのが「キッシンジャー補佐官」という言葉で(笑・謎だ)、「何をやっとんじゃーキッシンジャー補佐官」と囃し立てるというのが流行っていたのだ。返す返すも子どもは謎だ。ただ「きっしんじゃーほさかん」という語感が滑稽な感じがしたに過ぎないのだが、どう考えても。
で、何で私の場合深刻ないじめに発展しなかったのかなあと思ってみると、けっこう私がキレる子どもだったから、ではないかという気がする(今でも下手をしたらキレるんだが)。嫌なことを言われて(何を言われたかは覚えていないが)教室の机を相手に投げつけたり(おおー)、何か理不尽なことをいわれて2年生なのに6年生に殴りかかったこともある(もちろんすぐぶん殴られて終わりだったが)。今考えてみると私自身も相当嫌なところのある子供だったと思う。自分で開発した変な遊びをしてたり(とても書けない。小説でそのうちフィクションめかして書こう)、自分が成績がいいとか相手が分らないようなことをいうと「そんなことも分らないの~?」みたいな反応を平気でしてたりした、ような気がする。自分の都合の悪いことはだいたい忘れるので定かではないが。
中学一年のときは部活がイヤで不登校になったこともあった。しばらく学校を休んでそれから部活に出たらもう上級生もあんまり私にいろいろ言わないようになっていたが。あれもよく考えると上級生たちが自分たちで自重したり、教師から言われて自重したりしたようなことがあったのかもしれない。昔の田舎は少なくともその程度の教師の力はあった。
つまり自分はどんな手段にせよ、不愉快な状況には立ち向かうとか(いや、具体的にはキレるだけなんだが)逃げるとか大人に何とかしてもらうとかして、それが長引かないようにしたいという気持ちが常にあったのだろう。で、あのころは確実に自分の世界、「本の世界」があったので、逆に現実界に対する関心が薄かったという面もある。中学生になると現実界の状況が厳しくなって現実界への対応が自分の中で大きな問題になったのだが。まあそんなふうにいろいろなかたちで生存本能を発揮していたことは確かだ。
ということを書くのはなぜかというと、「猛スピードで…」の慎(まこと)はいじめにひたすら耐えたり、いじめっ子に従ったりしているので、なんだかそれにびっくりしてしまったということなのだ。まあ私はグループで囲まれてぼこぼこに殴られたりという経験はないし、集団でプロレスの技をかけられて泣いたりしても近くに大人が通ればわざとでかい声を出して窮地を脱したり(相当イヤな子どもだな今考えると)してた。まあつまりいつも自分なりの安全を確保することを無意識に最優先にしていたのだ。こう考えてみるとなんだか安全なホテル暮らしに金に糸目をつけないユダヤ人みたいな感じがしてくるが。だから、いわれたことに無条件に従ったりすることは思いもつかなかった。
今でも覚えているのは、転校するときにみんなからプレゼントをもらったのだが、その中に500円のシャーペンがあった。当時は300円のが普通で、500円のは贅沢品だったのだ。その時、ちょうど私は『ナルニア国物語』にはまっていて、全7巻のうち6巻まで読んでいたが、最後の『さいごの戦い』だけは読んでなかった。それをなぜか占有している子どもがいて、それを見せてくれといったら絶対だめだといわれたのだが、500円のシャーペンをくれたら見せてやるといわれて、惜しかったけど『さいごの戦い』には代えられないと思い、読んだことがある。面白かったけど、ちょっと悔しさが混じってたな、あのときの読書には。でも読ませてやるだけで500円のシャーペンを手に入れたほうがなんだか唖然とした顔をしていて、なんとなく勝ったと思った覚えもある。
だからいじめっ子に手塚治虫のサイン本をよこせと言われて持っていってしまう心理にちょっと驚きを感じた。で、つまりは、私が経験してきたようなことは、いじめといえるほどのものではなかったのかなあと思えてきたのだ。
本当に深刻ないじめは、私がやったようにたまたま時々キレるくらいでは止まないだろうし、返ってやばくなることもあるだろう。また常に安全を確保するといっても子どもは大人から目の届かないところに行きたがる習性は誰でも(少なくとも私にはあった)持っているし、そこで危険な目に合う可能性は常にある。そういう意味では子ども時代はサバイバルゲームのようなものでもある。
多分、今とそのころと違うのは、もっと暴力が日常的にあったということなんだろうと思う。だから子どもも「暴力はいけない」というのはお題目に過ぎないと思っていた。先生が子どもを殴ったりするのは当たり前とはいわないまでも別に違和感はなかった。私の親は殴るようなタイプではないから殴られたことはないが、口ではずいぶんきついことも言われたなあ。ある意味その方がこわかったけど。
だから、暴力に対してこちらも及ばないまでも暴力で対抗するというのはあたりまえのことだった。腕力で敵わなければ机を投げたり、ごみ箱を投げたりした。でもナイフとかそういう発想はなかったな。なぜかそのころの私の観念のなかでは打撲はけがの内にはいらないが、血が出る傷はどんなに小さくてもけがだったのだ。だから、相手にけがをさせてやろうとは思わなかった、ということなのだろう。とにかく相手に不快な行為を止めさせればよかったのだ。専守防衛だ。
多分、物語の主人公の慎が自分も暴力で対抗する、という手段を取らないところにちょっとびっくりしたんだろうな。まあそういう手段をとっていた自分の子ども時代とこの主人公とどちらがハッピーであったかはよく分らないけど。
なんだか本題とあまり関係ないいじめの話で盛り上がってしまったが、こういうちょっとしたところで自分を振り返らせる力が文学にはあるということなんだろうと思う。
脱線主体の感想だが、脱線のない読書など本当はあまり意味がない気もする。なんて暴力的な正当化!
※追記。「近くに大人が通ればわざとでかい声を出して窮地を脱したり」という作戦は、今の大人は見て見ぬふりをするから現在では使えないかもしれないな。でも私は子どものころそうやって生き延びてきた覚えがある(社会に対して恩がある)から、そういうサインを見せられたらなるべく助けてやりたいとは思っている。もちろんこちらに危害が及ばないように(なるべく)慎重に。
だから、「助けてほしい」というサインはなるべく明確に、はっきりと出してほしいんだよな。見て見ぬ振りをする大人でも、驚かされたら条件反射的に「どうした!」ってことになることだってあるんだし。助けを呼んでも無駄、という諦めが一番よくない気がする。まあそういうサインを発せられるということが「強さ」ということなのかもしれないし、発せられない子はどうするんだ、といわれるかもしれないが、でもその強さは持ってほしいな。いやこのへんの議論は多分堂々巡りになるかもしれないけど。
大人にサインが発せられない原因の一つには、大人に関わらせたら仲間はずれにされる、という意識があるのかもしれない。教師として関わっていた時代のわけのわからないいじめ事件というのはじゃれてるのかいじめてるのかわからないという事態がよくあった。嫌なことされるなら離れればいいのにとこちらから見れば思うのだけど、いじめる相手になぜか引っ付いていってしまう。SM的な友人関係というか、そういうものも現にあるんだろうと思う。そうなると大人は干渉しようがないんだが。そういうのは私には仲間とか友達というものを失うことを過度に恐れているように見えた。
自分自身のことを考えてみると、私が自分の世界を持っていたということは、「仲間はずれ」というのは私にとって一向に苦にならないということだったのだなと思う。その一方で、わりあい誰ともすぐ仲良くなるたちだったし。すぐ喧嘩にもなるけど。今でもそういうところはなくはないけど。
それから、普段は私を無視しようって子供たちも、宿題を写させたり分らない問題を教えたりという形で私に関わることには実利があったから、実際にはけっこう付き合いがあったんだよな。私はそういうことには基本的に気前がいいから(今でも基本的にはそう)、どんどん写させた。後から割り込んで移そうというやつに順番守れよって言ったり。(いい気なもんだ)そういうことがあるとやっぱり向うも負い目になるらしく、あんまり変なことはされなかったということもあるのかもしれない。(またそういうこともあって私は授業中やたら私語が多く、よく注意される子どもでもあった。先生の間違いもよく指摘したし、やっぱりいろいろな意味で扱いにくい子どもだっただろう。それをおおらかに扱ってくれたんだから当時の先生方に感謝すべきなんだなという気がしてきた。)
考えてみると子どもの力関係というのは本当に微妙だ。いつの時代も、そういう微妙な力関係の中で人との付き合い方を学んで来たんだろうと思う。現代の問題は、やっぱり暴力を過度に忌避する傾向と、大人の過度の干渉と過度の無干渉、多様なたくさんの子どもたちとの濃密な関係といった昔はわりと当たり前にあったものがなくなってきているということにあるのではないかという気がする。
子どもが子どもの世界という迷宮というか荒野を往き抜くサバイバルの技術と方針いうのはまあいろいろあるしタイプによっても違うと思うのだけど、とにかくみんな強く生き抜いてほしい。何だ結論としては当たり前だ平凡だといわれそうだが、大人になったら何とかなることなんかいくらでもあるよ、ということだ。変な世界に取り込まれると抜け出せなくなってしまうけど。だから気をつけてね。誰に言ってるのか。
***
綿矢りさ『蹴りたい背中』。これは140ページ、原稿用紙で200枚くらい。いま54ページまで。このくらいの規模のテーマのこういうキャラクターの描き方がこの規模の作品になるのかとふむふむと思いながら読んでいる。この小説、出たときはキワモノ的な女子高生を持ち上げる馬鹿な大人たちに評判らしい、みたいな印象があったので読む気がしなかったのだが(よく考えると今でも相当性格が悪いな)、読んでみるとあにはからんやかなり面白い。借りる前はとりあえず「読みたくねー」といってみたりしたのだが。教室の風景の描き方も映画的で面白いな。『セーラー服と機関銃』で薬師丸ひろ子が『カスバの女』を歌いながら足の間から向うを見ているシーンを思い出した。
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「さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。」
という冒頭の言葉が、「カスバの女」の哀愁や、またのぞきをしている薬師丸ひろ子の奇矯な行動を思い出させたのだ。
案外文章が濃くて、そういう意味で読むのが大変なのは意外だった。これはにな川というキャラクターに負うところも大きいが、主人公の思考も負けずにかなり濃い。この人も高校時代は(今もだろうが)相当くだらないことばかり考えていたんだろうなという妙な共感がある。行動形態は自分とはかなり違うが、高校生的な頭で読むと共感できるところはかなりある。
と、読みかけなので感想はここまで。今日はこれを読み終えて『蛇にピアス』でも借りようかな。
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