時代と自分の内面/フレーズは生き物/路地裏の蛍

Posted at 07/07/05

昨日は、長編小説の構想を立て、粗書きをいくつか。構想もまだまとまったわけではない。今まで書いた一番長いのは130枚なので300枚というのは結構長いなという感じ。いろいろ取り込まなければならないこと、考えなければならないことも多そうで、時間はかかるだろう。絵で言えば100号の作品という感じか。卒業制作みたいだ。

昨日も書いたが、私は80年代が20代なのだが、あまりポストモダンの思想的影響を受けていない。昨日はそれをポジティブな方から書いたが、その洗礼をきちんと受けずあまり興味も持っていなかったことは、時代感覚から言えばマイナスなんだと思う。一番問題なのは、いったい誰に向けて書くのかという問題が未解決であることだ。自分の立場が極めてマイナーなものであることは確かなので、自分が読んで納得がいくというだけではおそらく多くの人に十分に伝わるものにならない。世代感覚、時代感覚に自身が持てれば同じ世代や同じ時代を生きる人に向けて、という形で書けるのだが、改めて考えてみると私は誰がなんと言おうと私はこれだ、というものばかりを追い求めすぎていたような気がする。意識上でも無意識上でも時代の変遷の皮膚感覚のようなものをあまり大事にしてこなかった。というか、やはりそういうことに対する感性が基本的に未発達なんだなと思う。時代の中を遊泳するのがこれだけ下手だということは、ダイナミックに動いている時代や情勢を自分の内的状況とシンクロさせて捉えることが出来ていないのだと思う。

まあそういう人はそういう人で少なくはないのだと思うけど、やはり自分の内的状況にばかり関心が行き過ぎていたんだなと思う。最近、時代をシンボライズするような作品にもなるべく目を向けるようにしているのだけど、自分の内面と外的状況、すなわち時代の風というようなものがまだまだ基本的に全く隔絶している。そういう中では自分に向かって書くことしか出来なくなってしまうから、それはまずいということは理解できる。個性的であることは必ずしも表現としての成功につながるわけではない。表現なんて運動神経が必要なものだから。

えっと、落ちはない。

***

フレーズ、というのは全く生き物だと思う。つかまえ損ねると、どんどん逃げていってしまって二度とつかまえられない。

朝まだ明るくならないうちに腹痛がして目が覚め、トイレに行って戻ってきて二度寝したのだが、その眠りの夢うつつの中で、すごく上出来なエッセイを一本仕上げたのだが、目が覚めると全部忘れていた。

それでなくても私は夢のお告げ系の人間というところがある。新しいアイディアを得るためには現状の問題や期待できそうな線の話を寝る前に読んでおいて一度忘れて寝ておきると一定のアイディアが生まれていることが結構ある。誰でもそうかな。睡眠学習というかブラックボックスというか、眠りというのは不思議な働きをするものだと思う。

やはり枕もとにいつもしっかり書き留める準備をしておかなければなと思う。

しかし、逆に考えると、そういう目に見える形にならなかった物をたくさん持っているということも、実は大きなことなのではないかという気もする。

それにしてもフレーズは逃げる。だいたい手の離せないときにいい表現が浮かぶ。でも、その場で書きとめて後で読むとそれほどでもないことも多いけど。しかしだからといってつかまえなければずっと捕まえることは出来ない。

***

今思い出したが、昨日仕事場から実家への帰り道、小さな路地をあるいていたら蛍がいた。最初何かと思ったが、緑色の光が二つほど飛んでいたのは、蛍以外に考えられないだろう。他に発光性の昆虫はいるんだろうか。

しかし蛍のいるような場所ではないし、どこかの家から逃げ出したのかな。なんだか不思議な光景だった。

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by Luke Peterson

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