気の持ちようでは乗り越えられないことだってある
Posted at 07/06/28 PermaLink» Comment(2)» Tweet
昨日。松本から私鉄で数駅先の駅まで用事で行き、帰りは時間が合わなかったので松本まで歩いた。この道は何度か歩いているのだけど、どうも一番近い道がよくわからず、よく間違える。どうしても北松本よりに出てしまう。そのおかげで今まで歩いたことのないような道も歩いたのだが。それはそれで面白いのだけど。
矢沢あい『NANA』現在出ている単行本17巻読了。今は一瞬その内容を忘れて記憶の奥底に送り込んでいる段階らしく、思い出せないことも多い。昨日はスーパージャンプを買い今朝はビックコミックを買って読んでいるのだが、心なしか『NANA』に影響を受けたストーリーや絵柄がずいぶんあることに気づく。やはりこういうヒット作品は一通り目を通したほうがいいのだなあと思う。創作の世界における時代の雰囲気というものはいつも感じている必要があるよなあと思う。
スージャンは昨日読んでいて思ったより面白くないなあと思っていたのだが、これはこちらの判断が『NANA』にやられている可能性があるので断言は出来ない。ビックコミックはまあまあ面白いというか、何も考えずに読めた。ある意味没我の境地。そりゃまあ、主人公も20歳前後の女の子ではなく40歳前後の男であれば、共感に至るまでの壁の高さが違う。
昔、というか20歳頃までの私はどんな人間でも共感可能だと思っていたが、その頃は読めない作品が今よりずっと多かった。それは、「共感可能だ」と思っているような人間には共感できない作品が山のようにあったということなのだと思う。今は逆で、人間と人間の共感不可能性のようなものを強く感じているからか、返って読める作品も増えたと思う。普通に話を聞いても全然共感できないものが、小説なり文章で読めばその人の言いたいこともわかる、ということが実は多いということなのだろう。
わかるということ、共感するということは、いいことだとは言いきれない。悲しいこともあれば、忌まわしいこともあるだろう。共感しないこと、できないことがその人間を守るということだってあるし、ある文化なりある集団なりを守るということがある。アイデンティティというのは、つまりそういう共感不可能性に基づいて存在しているものなのだと思う。
共感するということは、そういう意味では自分を捨てるということだ。20歳までの自分には捨てるのにこだわるほどの自分というものが確立されてなかったからそういうことに対してこだわりがなかったということもあるだろう。そして捨てられない自分というものに付いて語ることが近代的な意味での、あるいは現代的な意味での文学である以上、そういうものを読めないのも当たり前と言えば当たり前だった。
『NANA』を読んでいて感心するのは、いろいろな角度から人間というものを見ることができる、その作者の視線だ。いろいろなエピソードを読んでいて、最初は優しいけど力のない男を非難する視線のみなのかなあと思っていたが、ある場面ではそれをその人間の大きさ、心の広さととらえていてある意味絶対的に肯定している。自分もどっちかというとそういう面を今まで主に露出してきているから、そういう意味では救われるなあと思ったし、逆にその二つが同じことの二つの面であることにも気づかされた。
また冷たい独裁的な人間を描いても、それが現実を欲望や願望でゆがめて認識することなく、冷酷な現実をありのままに認識し発言するから冷たく権力的に見えるのだということもまたかなり納得した。相反するようだが、自分にはそういう面もあるしそういう面を強く出していた時期もあるからよく分かる。なんというかこの作者は、学問なり何なり、そういうものに全く頼らずに学生の頃、あるいは若い頃に理解できない人間について自分なりにあれこれ考え、理解し乗り越えていく、そういうプロセスをいまだに続けているのではないかと思った。私自身があるところであきらめたプロセスを貫いているというところがすごいなと思う。逆にいえば、自分の中ではるか昔に通行止めになった道路が実は先にいけるのだということが判明したという感じか。だからその道を、自分なりに行ってみたいとも思うわけだ。しかし似ているようで少し違う人間分析が自分の中では常態化しているので、どうすればそれが出来るのかは道を組替えていく必要があるだろうなと思った。
『NANA』はあとどのくらい続くのだろう。同時代を疾走する作者、そしてその作品に、学ばなければならないことはまだまだ多いなと思う。
***
というようなことを書いてから、20歳までの自分はどんな人にも共感可能だったなどと書くと、20歳までの自分はまるで幸せ一杯だったように思われるかもしれないなと思った。
そうではなくて、実際には人から理解されない悲しみや苦しみを、自分から人を理解することによって乗り越えようと思っていた、ということだ。つまり簡単にいうと、気の持ちようで人は幸せになるという考え方を採って、気持ちを操作することによって自分の限界を乗り越えようとしていたということなのだ。
もちろん、気の持ちようで人が全然幸せになる、というより楽になるということは絶対ある。前向きに何かに取り組むことができるようになることもある。それで幸せになれるなら、それもまた一つの方法だと思う。
しかし、気の持ちようでは乗り越えられないことだってあるのだ。私の場合は、その気の持ちようというものを、理解されない苦しみや悲しみにきちんと向き合わず、逆に人の気持ちを理解しようとしている自分の存在に安心しようとしていたということなのだと思う。理解されていないということは悲しいことだし苦しいことだし耐えがたいことなのだが、人を理解しようとしている自分がいることで不思議に楽になる。楽な方を見て苦しい方を見なければ、苦しまずにいられるのはそれもまた事実だ。ただ苦しむべきときに十分苦しまなかったことが、自分を見失わせたということはある。もちろんその当時はもうこれ以上苦しめない、苦しみたくないと思っていたのだけど。
ちょうどその時に自分の苦しみに見合うような作品に出会っていたら、私などは多分すぐ創作に直結していったと思う。そういう作品はいくつかあった。高野文子とか近藤ようこは自分にとってはそういう存在だったのだけど、ただ自分の中を徹底的に掘り下げる作品というには少し違う。近藤は自分の女性性に強く沈潜しているからこれ以上は入り込むのは無理というところがあったし、高野は作品としてのみごとさという方向に傾いたところがあると思う。『NANA』がすごいのは、その掘り下げ方が半端ではない(はっきりいって今まで自分の中の悲しみや苦しみをこれだけ表現されたと思ったことはなかった)。
商業性のことについて私も何度か書いているけれども、それもまた作者自身への社会との関わり方の覚悟のようなものの表現としてあるのだ。そしてそれとの関わり方も売れっ子AV女優と売れない正統派の女優の対比としてどちらに対してもその考え方や内面について掘り下げていて、そのあたりがすごい。どっちもわかる、というようなおためごかしでは全くなく、どちらの内面にも下りていって、その悲しみや苦しみや野望や決意について描ききろうとしている。その作家根性はすごい。
結局自分は書くことによってしか癒されることはないし、前に進むこともできない。作家というのは、職業の名前ではなく、そういう魂のあり方というか、業の姿なのだと思う。また作家というのもいろいろあるし、作家根性というのはこういうものだなとか、プロ根性とはこういうものだなと思わされる人はたくさんいるのだけど、自分の書くべき方向性にこれだけヒントになる人は他にはいないように思った。
「作家にとっての真の行動は、書くことだ」というオルハン・パムクの言葉が、何度も思い出される。私は「気の持ちよう」とか「行動しなければ始まらない」という言葉に振り回されつづけたのだなと今では思う。私は「気の持ちよう」で人を変えることができる宗教人でもなければ、「行動する」ことによって社会を変えることができる革命家や運動家や政治家でもない。「書く」ということから目を離し過ぎていたのだ。書くことは何かための手段ではない。書くことそのものが行動としてあるのだ、ということを認識し理解することがどうしてできなかったのかと思うが、まあ気が多かったからだろう。迷いが多かったともいえるが。
ここに至るまでのプロセスにはいろいろあるが、文学との距離を置きつづけていた自分が小説を読めるようになったということが最大かつ本質的な変化だったのだと思う。だから自分に文学というもの(もちろん個別具体的な作品だが)を紹介してくれた方には非常に感謝している。
書くということが自分にとってどれだけ大切なことなのか、ということは本質的には理解していると思うのだけど、自覚としては、つまり意識の問題としてはまだあまりよくわかっていない。だから書くことからずれていってしまう危険は常にある、ということは自覚しておこうと思う。
よくわからないけれども、書いていると向うからいろいろなものがやってくるのだ。書いていないときには決してやってこないものが。
だから書くしかない。
***
ナナが歌以外の仕事の連続に対して「あたしは歌手なんだから歌いてえんだよ!」と切れる場面があって、それを見つけようと思ってずっと読み返していたのだが、見つからない。しかし読み返していると、掛け合い漫才のような言葉のやり取りがたくさん出てきて、そのあたりがとても面白い。やはり矢沢あいは尼崎出身のこてこての関西人なんだなと思う。こういう言葉のセンスというのは結構育った場所で染み着くものだよなあと思う。そういう意味では自分が子どもの頃不本意ながら関西にいたことも悪くはなかったのかもしれないと思う。
↑のシーンを見つけようともう一度読んだんだけどやっぱり見つからん。マンガは検索できないしなあ…
***
やっとみつかった。(しつけー)
「それより歌いてぇんだよ!あんな録り一本じゃ歌いたりねぇよ。何でこんなに歌える仕事が少ねぇんだよ。あたしはモデルでもタレントでもねぇぞ?何がファッション誌だ」(vlo16.p.29…備忘)
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"気の持ちようでは乗り越えられないことだってある"へのコメント
CommentData » Posted by y at 07/06/28
初めまして。書く事即ち行動する事だ、というところに感じ入りました。私も状況は違うのですが、ずっと「書を捨てよ…」というのを文字通りしか解釈出来てなくて、ともかくドアを開けて出かけて人と会って話して繋がりを作っていくのが行動と思ってた。でも多分、考えてる事感じた事を出力するのもとっても「行動」なんだなと今すごく思うのです。
CommentData » Posted by kous37 at 07/06/28
コメントありがとうございます。
行動の形式というのはほんとうに多様なんですよね。でも人は「行動」というととにかく足を使って動き、手を使って何かすることを考えてしまう。でも考えることも書くことも歌うこともみな行動で、それぞれの間に価値の違いなどなく、その人に課せられた(科せられた?)使命というか運命のようなものを必死に果たしていくしかない。それは他の人のやる「行動」とは全然違うものかもしれないから、自分の行動に自信が持てなかったり止めてしまったりすることも珍しくないのだと思います。
「書を捨てよ街に出よう」も一つのアジテーションだと思います。私もいろいろな種類のアジテーションに心を揺さぶられたりしたこともあるのですが、でも心のどこかでそれは違う、と感じていたのだと思います。間違っていることは感じることが出来ても、何が正しいのかを感じること出来ない、というのはつらいことです。
その人の真実は多分その人の内側にしかありません。それが社会や回りと関わる中で、否応なく引き出されてくるものなのだと思います。なかなか引き出されてこないと大変なんですがね。
でも少なくとも、自分にとっての真実を最終的に判断できるのは自分だけです。もちろん自分自身にすら判断できないまま死んでしまうことだってありえますが。
これだと思えるものをつかんだという自覚がある以上、それに向かって進むしかない、のだと思います。