「村上春樹の知られざる顔」

Posted at 07/06/09 Trackback(1)»

昨日。街中で用事をして本屋により、『文学界』(7月号、文藝春秋)を立ち読み。「村上春樹の知られざる顔」という評論が掲載されていて、読んで面白かったので購入した。ここ2週で4本短篇小説を書いたので少し客観的になろうと絲山秋子『沖で待つ』を読み直す。私の作品にはない何かがあると思う。この温かさ、のようなものが表現するためには自分に何がたりないのかと考える。

文学界 2007年 07月号 [雑誌]

文藝春秋

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沖で待つ

文藝春秋

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昨日の操法で言われた、「気持ちが急いてますね」という言葉の意味を考え続ける。急いているというのは焦っている、慌てているという意味か。そうかもしれないと思うのだが、よくわからない。一つ考えたのは、焦りがどういう状況で生じるのかということ。誰でもそうだとは限らない、自分の場合だが、何かに対し直接に向き合っているときは焦りというものは生じない気がする。その間に何か別のものを挟んでしまうと、そこに何か「見えなさ」「じれったさ」「不安」のようなものが生じてそれが焦りを産む原因になってしまうのではないかと思った。なるべく直接的に対峙すること。それ自体は怖いことでもあるし、慎重でなければいけないことも必ずあるが、状況を間接化させることで徐々に事態が崩壊していくことが多いのが今までの自分だったのではないかとは思った。

午後はFMを聞く。シューベルトピアノ三重奏曲1番、ベートーベンチェロソナタ5番。音楽が気持ちよい。音楽を聴きながらまた一つ小説の種を拾う。

午後から夜にかけて仕事。仕事を終えて上京。地元の駅でビックコミックを買う。今回印象に残ったのは『ファイブ』の佐古賢一の台詞。「でもオレは、天の助けをアテにしたことは無いんだ。バスケと自分の間に、何かを差し挟むことなんかできない。」というもの。ちょうどそのとき自分が考えていたことと似ていたので強く印象に残った。自分が好きなもの、自分が一生を賭けるもの。それと自分との間には、何者も介在させない。怖いからではなく、好きだから。そういう姿勢を持てる何かを持つことは、融通は利かないがある種の強さを持てることでもある。

ファイブ 3 (3)

小学館

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人はバスケットボールになることはできないから、バスケットボールにいかに近づくかということしかない。誰かを好きになっても同じだし、あるいは舞台で誰かを演じても同じだ。その誰か、何かになることはできないが、全力を挙げて近づくことはできる。そしてその誰か何かと自分との間に何者も介在させない、そういう状態を作り上げることがその人にとって生きているということなのだと思う。久しぶりに恋愛のことを思い出した。第三者の力を借りて何とかしようとか思うようになったら、もうその恋愛はだめだから。

読み終えて『文学界』を読み始める。都甲幸治「村上春樹の知られざる顔」。内容は、日本ではインタビューにほとんど答えない村上春樹が、海外では積極的にメディアに答えて数多くのインタビューの中で自著を語っていること、逆に日本では一定の評価がある初期二作品、『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』が外国では出版されず、外国では『羊をめぐる冒険』が村上の原点として流通している、という話。私も村上についてネットで調べていたら英語でたくさんのインタビュー記事が引っかかって面食らったことがある。で、中で言ってることは「石原慎太郎は危険だ」とかある種のステロタイプなことばかりで、全然読む気がしなかった。しかしこういう論文が書かれていると言うことは、そういう事実はあまり認識されてないということなのだと思う。村上は明らかに、日本人に対する顔と、外国人に対する顔を使い分けているのだ。

そのようなことから言えば、村上を研究するためには日本語文献だけではたりない。世界中にばら撒かれたさまざまなインタビュー記事でどんなことを喋っているのかなど、それを集積して検証する必要があることになる。

こうした表面的なことだけでなく、この論文はさまざまな問題を提起していて、調べたり考えたりしてみたら面白いだろうと思うことがたくさんある。ただ、それをそのまま紹介しても意味がないので、興味のある方はぜひ読んでいただきたいと思う。

ただ思うのは、村上は根本的にはアナーキストだと言うことだ。無政府主義という意味での。日本を解体したいという願望がどこかにあるのだろう。しかしその割には、アメリカという土壌で生まれてきたさまざまな自由とか独立と言った概念、アメリカ社会に内在する対日批判などを、かなり素朴に受け取っている感じがある。アメリカで暮らしていてアメリカ社会に対する問題意識をなぜ持たないのか疑問ではあるが、それは彼にとってアメリカが自分の国ではないからだと思うし、そういう意味ではどうしようもなく日本人であることもまた事実ではあろう。いろいろな意味で茂木健一郎や梅田望夫と共通したメンタリティが何かあるような気がする。私はそういう人達はある意味面白いとは思うのだが、ある意味うんざりするところもまたある。

何のかんの言っても、国家というのは物語だ。国の数だけ物語がある。しかし国家を否定するアナーキズムもマルクシズムもリバタリアニズムも、やはり物語なのだ。物語は確かに人を殺す。国と生まれて人を殺さなかった国家はないし、思想と生まれて人を殺さなかった思想はない。しかし残念ながら、人はそうした物語を完全に離れては生きてはいけないのではないかと思う。同じ物語ならば、好きな物語を選ぶ。私は日本という物語が好きだ。そういえば「私は周に従おう」、と孔子も言っていた。

東京について、帰りにコンビニに寄ったらコンビニブック『雀鬼 伝説よ永遠に』(竹書房)が出ていたので買う。相変わらずキャラクターの立った男たちがたくさん出てきて面白い。

雀鬼・桜井章一伝説よ永遠に

竹書房

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朝起きて東京MXテレビで『談志陳平言いたい放題』を見る。MXも石原慎太郎が知事になってから面白い番組をやるようになったんだよなあと思う。東京国際フォーラムを黒字化したり、『熱狂の日』コンサートをやったり、石原は文化事業には強いしそういう人材をうまく引っ張ってくるなと思う。しかし経済事業はダメだ、新銀行東京に代表されるように。一橋の出身だからそういうことは得意そうだが、本人は会計士になれといわれて勉強を始めてすぐに挫折したとどこかで言っていた。

『言いたい放題』ではチャップリンを取り上げていたが、ちょっとなんとなくよかった。談志は「芸」というものに対する愛、思い入れがものすごく深い人なんだと改めて思った。談志の紹介したアステアの「ちょっといい話」。

往年の名俳優をたたえるハリウッドの催しの中で、アステアが最初にカメラテストを受けたときのメモを使ってアステアが紹介される。「演技は出来ない、唄えない、髪は薄く、少し踊れる。今日はその人をたたえる夕べです」

談志はアステアに銀座で偶然に出会い、サインをもらったことがあるのだという。「アステアに出会っただけでも生まれてきた意味があった」と手放しで言う談志を見ると、やはり感動する。名人は名人を知るということか、たとえジャンルは違っても。


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