『セックスの哀しみ』/松本人志はなぜ面白いか

Posted at 07/06/03 Trackback(1)»

昨日。日本橋に出て、コレド地下の茶漬けの店で昼食。丸善日本橋店に行ったら、瀬戸内寂聴が新作『秘花』の出版を記念してサイン会をしていた。生で見たのは始めて。下向いてサインしてたからあまりよく見えなかったけど。

秘花

新潮社

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神保町に出て本を物色。なかなかほしいと思うのがなく、ブックマートで三田紀房・関達也『銀のアンカー』の第二巻が出ていたので買う。スーパージャンプのつい前々号くらいの話まで入っているので、出版のペースが早いなと思う。実際の就職活動をしている人からの要望が多いのだろうか。私はろくに就職活動などしたことがないが、このマンガを読んでいるとなるほどと思うことは多い。

銀のアンカー 2 (2)

集英社

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いろいろ物色した結果、三省堂でバリー・ユアグロー『セックスの哀しみ』(白水社、2000)を買う。「超短編」を90本、という考え方は奇抜で面白いなと思う。まだ立ち読みした分と最初の数話しか読んでいないが、何というか、他にない味わいだ。星新一などの、ショートショートとはぜんぜん違う。星的な「落ち」みたいなものがない。落ちがないわけではないが、星のような理知的なものではなく、もっと「味」とか「エスプリ」的なものだ。まあSFじゃないところもぜんぜん違うが。

セックスの哀しみ

白水社

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読んだ感じでは、ちょっと「民話」みたいな感じがする。民話というのは話の長さが不定形で、シュールな話もあれば理屈で落ちる話もあり、味わい深いものもあるというところがある。超自然的なことが平気で起こるのも私好み。特に刺激されたのは、ほとんど会話がないこと。語り手の語りだけで話が進み、終わってしまうところが、なるほどこういう作りも小説というものにはありなんだなと思わせる。いろいろと考えさせられたり刺激を受けたりするところが多くてそんなに簡単には読み進められない。

この人が南アフリカの出身であると言うのも面白い。最も、少年時代にアメリカに移住しているようで、そのあたりはクッツェーなどとは違うようだが。ただなんともいえない自己の客観視、それも斜に構えたような、というところはなんとなく共通点を感じるのだが。パフォーマンスアーチストでもあり、この本の映画化作品では主演もしていると言う。他の本で著者近影を見たら電信柱に隠れたようなふざけた写真だったのでこ、これは、と思った。

「飛び降り」という短篇。軽飛行機の中でのパーティーの最中、着飾った女の人たちがどんどん飛び降りていくのだが、自分は怖くて飛び降りられない、という状況の中、飛び降りられない女性がもう一人いて、「私たちは笑う。…私たちは互いの体に熱烈につかみかかる。…だがどんなに頑張っても、なぜか私たちは互いの服を脱がせることができない。」

この落ちがすごく可笑しいし、何というか凄い。飛び降りられないものは脱がせられない、というところにセックスというもののある種の本質があるとしか言いようがない感じがする。セックスというのは哀しいものである、という感じがする。いや人間という存在自体がもちろん哀しいのだが。

***

今朝テレビをザッピングしていたら『笑っていいとも増刊号』に松本人志が出ていた。最近ピンでよく見かけるが、つまりは初監督の映画作品『大日本人』のプロモーションのために積極的にテレビに出ているようだ。話も自然映画関連の内容が多く、カンヌでの上映会でフランス人が出たり入ったりするたびに心臓に悪かった話をしていたが、なるほどこの人は描写力があるんだなあと思って聞いていた。

松本が十数年前はレギュラーで笑っていいともに出ていた、という話はちょっと驚いたが、そうだったっけ。何だかいちばん記憶のない空白の1990年代のことなので、よくわからない。当時は20代だったという。

「今は43歳ですよ。犬でいったら200歳超えてますからね。」

というギャグに大うけした。また久しぶりに「いいとも」に出ると言うのでとても緊張したのだという。

「すごい緊張して、前の晩コンビニに行ったら思わず万引きしそうになりました」と言ったのも可笑しかった。最近、松本の語りですごく面白いなあと思うことはあまりなかったのだが、映画を盛り上げようという意識と、喋りの相手がタモリだから何を言っても大丈夫(つまり相手が何でも受け止められる力がある)という余裕があったからだろうか、ずいぶん語りに切れ味があった。

で、この二つのギャグが何で面白いんだろうと考えて見たのだが、まず前者で言えば、自分が43歳であることをわざわざ「犬で言えば」と無意味な変換をしているところが面白い、というところになりそうだが、よく考えてみると、「人間の43歳が犬の200歳に当たる」わけではなく、「犬の43歳が人間の200歳に当たる」はずだろう。しかもよく考えてみればこの言説には根拠が全くない。200歳生きた人間はいないし、もちろん犬だっていようはずがない。

しかし、ただ無茶苦茶言っているから面白いのではない。これは、よく動物の年齢について話すときに「人間で言ったら何歳」ということをよく言っているから面白いのだ。あの「人間で言ったら何歳」というのはそういわれてみれば納得するが、よく考えてみれば「本当にそうか?」という疑問は起こるだろう。あれはたんにアナロジーに過ぎないわけで、人間のその年齢に起こることが動物のその年齢で起こるわけではない。だいたい動物は生まれたらすぐ歩けるのだし、1年くらい転がったままの人間の子どもとはぜんぜん違う。増して、昆虫がさなぎになったりするのを人間で言えば何歳というのはありえないだろう。ゾウリムシが細胞分裂するのは人間でいえば何歳か、とか言い出すと完全にこの言説が無意味だということが判明する。

つまり、この根本的な無意味性をじつは松本はついているわけだ。もちろん、そんなことは分かっている、ただ「分かりやすくするために」人間に例えているだけなんだから、そんなことをいうのは野暮だ、という意見もあるしもっともなことだと思う。しかし上のように考えてみれば分かるが、本当にわかりやすくなっているのか、新たな混乱を生んでいるだけなのかということは実は判然としない。しかしそれを「分かりやすくなった」と考えて分かった気になっているところに、精神の「ユルさ」があるということは言えるのではないか。松本がついているのは実はそういう「ユルさ」なのであって、それを笑いのネタにできるということは、実は松本は非常に「知的」な芸風の持ち主だということなのだ。

万引きのネタもそうだ。このネタが面白いのは、万引きの少年やら主婦やらが捕まったときに、「明日が試験で緊張していたら無意識にやってしまいました」とか「夫婦間がうまく行っていないのでいらいらして無意識にやってしまいました」というような言い訳が巷間流布しているというところに下地がある。「万引きはあかんやろ」と思っていても、そういうふうに言われてしまうとつい「そうかしゃーないな、もうすんなよ」「かいわいそうやわ、ゆるしてあげて」(なぜ関西弁になっているのか)みたいに許してしまうという風潮が世間にあるということを踏まえているわけである。「万引きした」→「それはストレスが原因だった」みたいな心理学的、社会問題的な理解なしかたを、実はおちょくっているわけである。

松本は「万引きした」→「ストレスがあった」という構造をひっくり返して、「ストレスがあった(緊張した)」→「万引きしそうだった」というギャグにしているわけだ。このひっくり返し方はなかなかすごい、というか普通はなかなか思いつかないなあと思う。そこを思いつくから松本が天才扱いされるのだと思うが、普通はこういう問題に対してだいたいの人は腰が引けているのだ。こういう人たちに対して「やさしくて理解のある大人」を演じるか、「気持ちが分かってどきどきしてしまう気もするが原則に従って厳正に対処するぞ」と厳しい人を演ずるかどちらかになってしまうのに対して、松本はそういう腰の引けた姿勢の「ユルさ」をついている。ということは実は彼は「ストレスだろうと何だろうと万引きはあかんやろ」といっていることになる。

つまり、松本のギャグはビートたけしが「赤信号みんなでわたれば怖くない」のように、「みんな本音ではルールなんかどうでもいいと思ってるんだよね」みたいにルール無視、建前より本音、みたいな団塊世代的なというか「戦後焼け跡派」みたいなセンスで伝統や「正義」を破壊するギャグとは本質的に異なるのだ。

彼らは世の中に対するツッパリ感から坊主頭にしたりしているので伝統破壊的に思われているがそうではなく、むしろ「にやけたエリートよりもこういう俺たちのほうが本当はピュアでまじめに何が正しいかとか考えてるんだぜ」というテーゼの持ち主なのだ。それをああいう「気に入らんものには従わん」的な態度でやっているところに意味がある。

最近ではだいぶそういう尖った部分がなくなっていて、というかつまり日本人自体が松本が出てきたころに比べてもさらにユルんできていて、あんまり切れ味よくあってももう意味がないと言うか、やる気をなくしてきているんじゃないかという感じがあってあんまり面白くなかったのだが、今日みたギャグは相当切れ味がよかったから、かなりやる気が戻ってきているのだろうと思う。

考えてみれば「爆笑問題」の太田なども同じスタンスでやっているのだが、しかし太田はまじめすぎるのだと思う。ある種の政治勢力にいいように使われるような芸人としてのあり方からちょっと外れるようなところがあって、その辺が東京のお笑いの層の薄さなのかなあとちょっと残念に思うところがあるのだが、松本はやはり分厚い関西のお笑いのそうの中で、「本当は世の中のことを深く考えて(考察して)いるんだぜ」なんてところを絶対に見せないところがいい。このへんが大阪と東京の政治文化とか芸人文化の違いなんだろう。「映画はやらない」といっていたのもその延長線上なのだが、やはりお笑いの現状だけではあまりにつまらなくなってきたのだろう、そういうこともあって難しいといわれる喜劇の映画化に挑戦したのだろうと思う。

ビートたけしのようにそっちの方で「偉くなる」のが目的なんだったらつまらないが、芸とか笑いとかいうものをそれによってもっと広げて、もっと深めていくことができるんだったら、それは面白い挑戦になるだろうと思う。今日は松本人志という人を根本的に見直した感がある。

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