自由と才能/地球は病んでいる/携帯電話投げ選手権/占いと鑑賞力/『宇宙家族ノベヤマ』

Posted at 07/04/16

『細野晴臣インタビュー』読了。この本は自分の中で転機になりそうなものをたくさん含んでいる。細野晴臣という人はとても自由に生きていて、こんなふうに生きてもいいんだなあととても感銘を受けたのだが、『Dasy World』のウェブサイトからたどっていった『ほぼ日刊イトイ新聞』のなかの「人の幸せを読む仕事」でもとイェロー・マジック・オーケストラのマネージャーだったと言う日笠雅水(現手相観)が細野さんのことについて糸井重里と対談していて、日笠さんが「あの人天才だから、マリンバでもスティールドラムでも新しい楽器を持ってくるでしょ、世界中の珍しいもの。2、3分触ってると、もう演奏できちゃうんですよ。5分与えればレコーディングできちゃうの。」と言っているのを読んで、やっぱりそういうことを出来るのは天才だからかなあとも思った。

細野晴臣インタビューTHE ENDLESS TALKING

平凡社

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参考:『ほぼ日刊イトイ新聞』 「人の幸せを読む仕事」トップ
「細野晴臣夢日記」
「細野さん、慶一さんとトリロー先生の話を」:鈴木慶一・細野晴臣・坂本冬美ほかが三木鶏郎作詞作曲「明るいナショナル」を歌う音楽ファイル付きと言う大サービス。

もうひとつ面白いと思ったのはガイア仮説の話。ガイア仮説と言うとニューエージ系の疑似科学的なものと言う印象が強かったが、超能力少年と二人で山歩きをしているときに「これが地球か」という実感を持った、という話だ。それまで細野はパラダイス願望と言うか、宇宙の方向、天の方向に惹かれるものが強かったのが、地球という方向に惹かれたと言う話が面白い。

地球感覚というのは、ただ快いだけじゃないんです。激動して揺れ動いていて、病んでいる面もある。風邪引いたりしているような状態でもあるかもしれない。そういう動きにあわせながら(音楽を・引用者注)作ろうとしていたから、わりとこう、乱れちゃうんですね、気持ちが。とても宗教的な感覚とはいえないんです。例えば低気圧が来て体調を崩したりとか、そういうことと同じだったわけで、安易に地球といっちゃいけないんだ、ということが分かったんですよ。そんなに軽いものじゃないと、むやみに波長を合わせると破滅するぐらいの強いものがあるんですよね。

地球自体が病んでいる、という感じはすごく分かるような気がした。この病というのは人間が環境を汚染したから、というような皮相なものではなく、地球自体がもともと病んでいると言う感覚で、ある意味天も地もそんな純粋なものではないというか、(天はもっと比較的純粋かもしれないなという気もするが)それが生きた現実なんだ、という細野の理解が納得できるものがあった、ということだ。

別にガイアどうこうということはないのだけど、地球も生きて動いているもの、と考えた方が揺るがぬ大きなデンとした物、という理解よりはベターなんだと、まあその程度のことなのだが。

本を離れるが、日笠さんが細野さんのことを「“かわいいタヌキ”ですよ。タヌキっていうか、かわいい生き物。かわいい生き物だと思いますね。」と言っているのがほんとそうだよなあという感じがした。

で、話は突然変わるが、ここ数日間で買った本。

金曜日の深夜に帰宅してからもう6冊も本や雑誌を買っている。金曜日の夜に『TITLE』5月号(文藝春秋)。「北欧デザイン最新紀行」という特集。中にハンス・ウェゲナーの特集があって読もうと思ったんだけどまだ読んでない。村上春樹が映画に関する対談をしているのだけどどうも編集がきつくてあまり村上語調でないのが残念。記事として可笑しかったのは「フィンランドのまじめでおかしな世界選手権」という特集の中に「携帯電話投げ世界選手権」というのがあったこと。フィンランドと言えばノキアだが、大量に廃棄されていく携帯電話を、有害なごみにする前に気持ちよく汗をかこう、というのが趣旨(どんな趣旨だ)だそうだ。西欧人はこういうあほらしいことに盛り上がるものだが、これはその中でも相当意味がなくて笑った。

TITLe (タイトル) 2007年 05月号 [雑誌]

文藝春秋

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土曜日の日中に『雀鬼・桜井章一 そして伝説へ』(竹書房、2007)。後半部分は単行本で呼んだことがあるが、前半はこのコンビニブックで初めて読んだ。しかし「治外法権麻雀」に勝てるものはないなあやはり。

雀鬼・桜井章一そして伝説へ

竹書房

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午後遅く、なんとなく王子の名主の滝に行きたくなり、出かける。行く途中で日笠雅水さんの本がほしいなと思い、いくつか本屋を回るが見つからず。東京駅大丸の6階の三省堂で見つけた。ここの三省堂は、「生活・実用」に属するような本は結構バリエーションがあって、古いものも見つかることがある。その天に注目すべき書店かもしれない。日笠雅水『てのひら予報』(マガジンハウス、2006)。手相というのはどうも観るのが難しい。生命線とか感情線とかいうけれど、いまいちぴんと来ないなあと思っていたのだが、「手相を観るのは、難しいことではありません、一番大切なことは、ぱっと見の印象です。」というコメントがあり、そういうものかと思う。京浜東北で王子まで行ったのはいいが名主の滝に行ったらもう門が閉まっていた。

手のひら予報

マガジンハウス

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日曜日。昼頃だったか、地元の書店で手相の本を探したら銭天牛『[すぐに役立つ]銭流なるほど手相術』(棋苑図書、1989)という本があった。銭天牛は、易の本がとてもよかったので、手相もきっと面白いだろうと思い購入。銭という人は、何というか主観的なのだ。しかし、政治にしろ科学にしろあるいは占いにしろ、客観的な描写だけではそれにどういう意味があるのか私などには全然分からないし理解できない。誰かが実に主観的な、それでいて遠くまで目の届いた叙述をしていたり話をしていたりするのを読んだり聞いたりして、それで始めてそのものの理解すべき切り口というか、そこに入って行く行き方をつかめると言うことが多い。だから、普通の意味での学者的な叙述というのは読んでいてもちっとも役に立たないのだが、銭という人はそういう意味で占いの本の中でもいちばんはいっていきやすい叙述をする人だ。もちろん実に主観的なのでおいおいと思ったり辟易する部分もあるが、そういうことを含めて人間というものが実に主観的な動物で、主観のない人間の客観的な意見など実は無用であると言うことがよくわかる。しかしそれが自分の経験や自分自身の思考に基づくものでなければ有害なだけでなく面白くもないけれども。

すぐに役立つ銭流なるほど手相術

棋苑図書

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この本は、そもそも人生とはどんなものか、という話から始まっている。占いの本は女性が書くことが多いのだけど、女性というのはどうも「そもそも」話が嫌いらしく、あまりそこから書いている人がいない。私などは「そもそも」と言われないとはなしをまじめに聞く態勢が出来ないのでそういうことは困る。(女性はそもそもが嫌いだ、という話は細野晴臣に関して本を探していたときに大瀧詠一との対談でもそういう話題になっていた。ナイアガラのファンは30代以上のもてない男ばかりだ、とか)人生はただ一度の宝探しで、占いはそのための地図だ、という位置づけ。そして手相は交響曲のようなもので、ひとつの線や丘を読んだだけでは手相を読んだことにはならない。それは交響曲のひとつの音符を読むようなものだ、というのを読んで、日笠さんの話とつながった。つまり手相というのは文書のように解読すべきものではなく、音楽や絵画のように鑑賞すべきものなのだ。鑑賞の結果、いいとか悪いとかいろいろなものが読めてくる。このときルノワールは何を考えていたのだろうかとかここに黒い犬を配置したのはなぜだろう、見たいな感じで鑑賞を深めていくことによって手相というものは理解できる、つまり、要素に分解して還元してその総和で理解すべきものではなく、その全体から受ける印象とか、細かく見ていったときのタッチとか、バイオリンの音の粒立ち方とか、感性で受け取るべきもので、つまり手相を見て何かいうということは、絵を見て感想を述べるのに近い、ということなのだと思った。

考えてみれば占いというのはそういうものかもしれない。易とかタロットカードでもこう出たらこうだ、というばかりではなく、その表現の仕方は占い師によってさまざまだ。そして多分、その占った結果の向こうに見えるその人の人生のようなものがイメージとして浮かび上がってこなければ、占いというものはあまり意味を持たないのだろうと思う。それは絵や音楽が単なる物理的な絵の具や空気の振動の向こうにあるものを見るというのと同じことなのだ。想像力と鑑賞力こそが、占いの本質だろう。

だから占いが当たるとしたら、その人が背負っている過去と現在、あるいはその人自身が持つ素質・本質を見ることによって、それが必然的に呼び寄せる未来(それはむしろ既に現在といっていいのかもしれない)を見ることが出来るというのに過ぎないのだろう。そういう意味ではそれは癌の病巣を見てあと何ヶ月です、と宣告する医者と本質的にはそう変わらないのだと思う。

まあしかしそこには鑑賞のツボというようなものがあるわけで、そういうものが結局手相の本などに書かれていることなのだと思う。

私は手相の本を見ていつも自分の手相の本に当てはまる記述があまりないなあと思い、それで興味を失うと言うことが多かったのだが、この本は手の大きさの大小から始まって一本一本の指の長さなど「線と丘」だけの解釈でないところが理解しやすい。また4本の指の根元に丘がある(つまり4つある)ことになっているのだが、私の手で膨らんでいるのは指の根元ではなく、各指の根元の間なのだ。一体どういう手相なのかなあと思っていたら、そういう手は「三峰紋」と言って大吉なのだ、と書いてあってこれは一気に気をよくした。

手や指をしげしげと見ることなどそうないのだけど、改めてみてみて記述と比較してみると、どうも私は中指から外の3本は発達していて、親指と人差し指が今ひとつ発達してないようだ、ということが分かってきた。親指が志、人生への知力、行動力、環境を変える力を現し、人差し指が野望、野心、目的への突進力、義理人情を含めての俗才、環境・社会に働きかける力を現すと言うことだが、何だか笑っちゃうなあ。

中指が魂、反省、思想、薬指が憧れ、美、感性、小指が自己PR、サービスさせる力、ということらしい。こちらも何だか笑う。

とりあえずこの本は面白いので、読んでいる。

午後遅く、また丸の内丸善に出かける。手相の本を探したが買わず。岡崎二郎『宇宙家族ノベヤマ』1巻(小学館、2007)を買う。これはビックコミック連載の漫画なのだが、ちゃんと読んでない回もあり、改めて最初から読んでみると、実は重厚な非常に興味深い内容のマンガだと言うことに改めて気付いた。ラフクフラクフラというキャラクターはよく考えたものだと思う。早く続きが読みたいのだが、さて。

宇宙家族ノベヤマ 1 (1)

小学館

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