レーシック(屈折矯正手術)/トーマス・マン『幻滅』

Posted at 07/04/06

昨日。なんだか疲れが出たのかぱっとしない感じだった。『基礎から作るMovableTypeブログデザイン』のほうは一通り書いてあることを実際に実行してみて、現状ではこのようになっている。まあなかなかきれいに作れるものだなと思ったが、細かい不満も結構いろいろあることはある。MovableTypeのデザインの仕組みの全体的なことに関してはだいたい飲み込めたように思うので、あとはスタイルシートの応用力をもっと高めていくことが重要だろうなと思う。その練習問題のようなテキストがあればいいのだが。ちょっと時間があるときに探してみたい。

必要があって(といっても自分が受けるわけではないが)レーシックについて調べていたのだが、いろいろな情報があることを知る。レーシックというのは「視力回復手術」としか思っていなかったが、正式には「屈折矯正手術」なのだ。日本では最近方式に細かい違いのあるものを含めてずいぶんたくさんの手術が行われているらしい。角膜をレーザーで削るというやり方自体に関しては基本的に同じなのだが。私の直接の知り合いの人でも、1998年だったから厚生省に正式に認可される以前にこの手術を受けた女性がいて、度胸があるなと思ったが、めがねが必要なくなってよく見えるしとても良いといっていた。一方でやはりいろいろ問題のあるケースもあるようで、しっかりと自分の条件や医療機関側の条件を見極めてやるやらないを含めて選択する事が求められるのだなと思った。

広告でそうした手術のあることを知る人は多いと思うし、それはそれでよいのだが、眼科学会のサイトなど(「日本眼科医会」や「屈折矯正手術の会」という眼科医の組織もある)調べれば詳しい情報はかなり見つかるので、そうしたものも見てきちんと判断していく必要があると思う。目というのは人間の臓器の中でも決定的に重要なものの一つなので、的確な判断が求められるところだろう。

しかし、眼科医会のサイト(「屈折矯正医療の現状」)を見ていて驚いたのだが、中学生のコンタクトレンズ使用者のうち目に異常感を覚えたときにどうするか、というアンケートで3割以上が「そのまま使用を続ける」と答えている、のだという。なんというか、野蛮な体力というべきか、判断力が弱いというべきか、自分ではさすがに考えにくい。若いうちは無茶をしてしまうということのある種の典型のように思ったが、眼科学会の側もこれには相当驚いたようだ。ある意味啓発活動も重要だし、最初にコンタクトを使い始めるときの指導も重要だということだろう。私は大学生のころコンタクトを試したことがあったけど、結局瞬きが浅くて少ないという問題点からトラブルがあり、ハードもソフトも両方とも使わなくなった。めがね歴は小学校3年以来だからもう30年以上になる。目の問題というのは実は自分にとっても社会的にも大きな問題なんだなと改めて思った。

レーシックは眼科手術ではあるが、保険はきかない。だから少なくとも20万以上はする。使用するレーザー機器は一台数千万円以上するようだし、医学的判断力においても技術的にも高度なものが求められるから費用は自ずと高額になるだろう。また初期投資額が多いからそれを回収するためには特に個人医院では数をこなすことも必要になるだろうし、宣伝広告が多いのもその点では頷ける。しかしそれで十分ペイするだけの需要もまたあるのだろうし、まだまだ掘り起こしていけば需要はもっとある、と考えられているに違いない。

だいたい良く考えてみれば何故なんだろうと思うのだが、目に関する視力矯正器具はめがねであってもコンタクトレンズであっても保険が聞かないのだ。医療器具である以上、保険が使えてもいいとおもうし、実際めがねの代金が3割負担で済めば私などは相当助かる。歯科医療でも保険診療と保険外診療があるのだから視力矯正に関しても一定の範囲で保険がきくと助かるなあとは思う。

まあだいたい、ブログの一回の記述で取り上げきれるような話ではないが、視力というのはほんとうにある意味人生に関わることであるので、これについて考えたこと、調べたことなどを一度まとめてみるべきかもしれないと思った。まずは自分自身のために、それから人のためにも。

***

筒井康隆『短篇小説講義』を読みつづける。昨日読んだのはゴーリキーとトーマス・マンの部分。ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』という作品の「一人称複数の主人公」というのが筒井の『虚航船団』の中のある部分に似ていると指摘されたという話は面白いと思った。イシグロの『日の名残り』を読んだときに、「二人称による描写」が斬新だなと思ったことがあったが、複数の主人公というのも確かに面白い。

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トーマス・マンの『幻滅』という小説については、記述を最初読み始めたときには気がつかなかったのだが、実は大学一年の後期にドイツ語の授業のテキストとして取り上げられていた小説だということに突然気づいた。とにかく難しくて、何を言っているのか全然わからない。ドイツ語も難解だし、どうにもならないと思って和訳されたものを読んでみたのだがそれでも何を言いたいのか分からない。ようやく「世の中は小説などを読んで想像していたほど面白くないので幻滅を感じる」という話だということがわかったが、「それで?」としか思えず、ほかに何かいいたいことがあるのではないかとさんざん考えてもわからない、というものだったことを思い出した。だいたいその授業はほとんどサボっていた私が悪いのだが、不可がついたような気がする。

筒井の書いているところによると、若書きの観念的な小説だが、トーマス・マンともなるとただ観念的ではない、というような評価で、なるほどそういう方向から読めばそう読めるんだなと思った。よく考えてみればこれを19歳の大学生に読ませる教員側の皮肉も相当なものだが、なんというか多分当時の私は「幻滅」など感じている暇がなかったので全然理解できなかったんだろうなと思う。そういう意味では教員の意図は空回りだったわけだが、多分面白いと感じた私などよりはずっと早熟な、あるいは文学的な学生もたくさんいたんだろうと思う。

なんだかこういう「のどの奥に何十年も引っかかったままの(現実には忘却の彼方に沈んでしまった)骨」のような記憶にある日突然めぐり合うというのも面食らうが、面白いもんだなあとも思う。こういう引っかかりのようなものを、私のような人間は実はものすごくたくさん抱えていて、ある日突然それを思い出すこともあれば、一生思い出さないまま引っかかりのままあの世に抱えていってしまうこともたくさんあるんだろうと思う。そういうことってありますか、ありませんか。人によっても違うんだろうなと思うけど。まあなんだか奇妙な感じだ。前向きのときはそういう感じも楽しめるが、後ろ向きのときはただ変な感じ、場合によっては妙な鈍痛になったりするときもあるんだろうなあと思う。

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松坂が初登板で初勝利を挙げた、とFMのニュースできいた。今日はこの話題で持ちきり、という感じだろうな。すごい投手だとは思うけど。

もう一つびっくり、というか知らなかったのだけど、その後聞いている「ミュージックプラザ」でモーツァルトの交響曲25番がかかったのだが、モーツァルトの交響曲で短調なのは25番と40番だけなのだそうだ。これはちょっとびっくり。で、両方ともト短調。なんかあるのかな。で、25番を聞いていたら40番がどんな曲なのか思い出せなくなってしまった。なんだか歯痒い。東京に戻ったら聞き比べてみようと思う。

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