気の重い仕事/視野の狭い人間

Posted at 07/01/05

昨日。一昨日は飲みすぎて昨日の午前中は体調を取り戻すのに四苦八苦だったが、ある意味体の中が大掃除されたような感じもあって、スッキリした部分もある。たまにはしこたま飲むのも返って体に良いという部分もあるのかもしれない。あくまで「たまには」、であるが。

いろいろ仕事をしながら、いつもやるのに気の重い仕事があって、それはなぜなんだろうと考えてみると、どうもそれはその仕事に一番真剣に取り組んでいるからだ、ということに漸う思い当たった。真剣に取り組むから全力を投入するので疲れるし、神経が高ぶる。周りの環境にもかなり影響される。だからなかなか取り組むのが億劫になるのだ、ということが昨日考えていてわかった。私はもともと環境に左右されるたちなので、環境を整えないとものがやりにくいということはあるのだけど、仕事の中でも割合どんな環境でもできるということもあるし、環境が整わないとできないということもある。その強弱のつけ方というかがなかなか難しく、職場環境の劣悪なところだと神経が参ってしまうという傾向がある。90年代に疲れてしまったことの大きな部分は職場環境(家庭環境もあったが)にあるなあと今更ながら思った。

古い『月刊全生』が実家の大掃除のときに出てきて、折に触れて目を通しているのだがとても面白い。私がとても目を開かれたのは、私のようなタイプは「視野を広げる」ということをとてもよいことだとアプリオリに思っているが、それは誰にでもそう感じられることではないということで、これは目から鱗が落ちたような感じだった(平成5年5月号より)。実際いろいろ考えてみれば私も何か思い込むと周りのことは見えなくなったりどうでもよくなったりすることがあり、よく周囲から注意されるのだが、注意されても遮二無二進んだりする。そういうふうに考えてみると実は視野が狭い性質なのであって、だからこそ「視野を広げる」ということに非常に大きな価値を見出しているんだなと思ったのである。実際、このブログを読んでいる方は判ると思うが基本的に何でもかんでも興味を持ってしまうほうである。それは自分の視野の狭さを自覚しているがゆえに無意識のうちにいろいろなものを知りたいと思うということなのだろうと思うと非常に腑に落ちる。井戸の底から世界を見ているような感じなのだ、自分の精神的な自覚としては。いろいろ知ることで広がった感じはするし安心もするのだが、いやまだまだ、という感じはいつまでも残る。それはやはり本質的には視野が狭いからなのだと思う。このあたりは言われてみてほんとうにそう思ったが、だからこそ視野を広げようと行動するところが、結局生きるということなんだなあと思う。

だからたとえば、もともと視野が広いタイプの人(そうは見えなくても)に「もっと視野を広げろ」ということは有害で、返って混乱してしまう、逆にこれとこれに気をつけろ、と視野を狭めることが重要なのだという。これも目から鱗が落ちた感じである。まあ明らかに滑稽だが、視野の狭い人間が視野の広い人間に「視野を広げろ」といって言う側も言われた側も当然だと思っているということがよくあるような気がする。私などもそうだが、自分が視野が狭いので、誰もがそうだと思い込んでしまっているのだろう。まあこのブログの内容もそういう意味では冷や汗ものなのだが、しかしそうやって何とか視野を広げようと苦闘している視野の狭いものの記録、と笑覧いただくしかないということなのだろう。

だから何か新しいことをやるのにまずいろいろ試してみないと気がすまないのはある程度の視野が出来たと感じられなければ不安が大きすぎるからなのだと思う。新しいことは常に面白いし興味深いのだが、そこである程度やろうとするためには物が見えていないとすぐ自分がどこにいるのかわからなくなってしまう。よく、広く浅くより狭いところを深くまで掘らなければだめだ、というようなことを言うが、実際のところ、あまり自分で自覚はしていないが、狭いところを深くまで掘るのは考えてみればそんなに不得意ではなく、まあやる気になればできることなのだと思う。しかし狭く深くで周りが見えなくなってしまうのがどうしても恐怖なのだ。他の人を見ても、そういう感じで周りが見えなくなっている人を見ると、「こういう人にだけは絶対になりたくない」と思う。そう思うのは、自分がそうなってしまう可能性をとても強く感じているからなのだと思う。

逆に羨ましいのは、一つのことに一生打ち込んでいる人で、そういう人は一つのことに打ち込んでいてそれ以外のことにはとても謙虚なのだが、だからといって実に広やかな視野を持っていて、いろいろなことを見通している。そういう人は、もともと視野の広いたちの人が、ここ、と思い定めて一つのことに打ち込んでいるからそうできるのだと思う。そういうのはもう、たちの違いだからどうしようもない部分があるし、自分にはそうできないだけにとても憧れるということなのだと思う。

だから結局は、新しくて面白いものを見つけたらそれに飛びついてそれを徹底的に味わい尽くし、また次のものに目を向けてそれに取り組む、という方向でしか自分の質と力を生かすことはできないのかもしれない。もともと視野の広い人は自分がやっていることがアウトオブデートになってきたらそこで方向を転換したりまた自分の時代がやってくることを見通してそこにいつづけたりすることが迷いなくできるのではないかと思うが、私のような人間はそれが時代遅れになってきてもなんだか変だなと思いながら同じことをやりつづけることにしかならないのではないかと思う。そしてぼろぼろになるまでそれをやってしまい、失敗とわかってからも新しいことに移るのにものすごく手間がかかるということになる。見切りが肝心とよく言うが、見切るためには見えなければそれは出来ないのだ。

以下のサイトもよろしくどうぞ。

『読みたい本を見つけよう!本探し.net』
『本探しブログ:本を読もう!』
読書サイト『読書三昧』

詩のメールマガジン『詩の林檎』
携帯版『詩の林檎』

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday