努力とカンと思考の空回り

Posted at 06/12/24

書きたいことがいくらでも出てくるときというのは、最初に書こうとしたことが書けなくなってしまうことが往々にしてある。

今日はまず最初に感じたことを書こうと思っていたのだが、それは昨日、日本橋のあたりを歩きながら考えていたことだ。

神保町からの帰り、東西線に乗るにはいくつか乗り換え方があるが、昨日は日本橋のコレドの地下のプレッセで買い物をしようと思い、三越前に出て日本橋を渡った。もう暗くなっていて、日本橋の欄干は上を通る高速道路の下側に設置されたライトに当たって欄干の龍の彫刻などがきれいに浮かび上がっている。むかしはこれも見る人もほとんどいなかったのだが、最近は写真を撮っている人がよくいる。昨日も外人が撮っていたし、熱中して撮っている本格的なカメラを持った年配のおじさんが二人、一生懸命撮っていて歩行者である私に危うく衝突しそうになったりした。

以前は私はよくこういうものは見て回っていて、でも見ているのは自分だけ、ということがよくあったのだけど、最近はこういう都市遺跡というかそういうものが見直されてきているんだなと思う。こういうものははやってくると「何だよ」と思うへそ曲がりなところが私にはあるのだけど。

とにかく日本橋を歩きながら、私はカンが鈍いな、と考えていた。カンと言っても、なんというか、物事をやろうとするときに、これはうまく行きそうだ、とかだめそうだな、と思うカンのことである。このカンがちゃんと働く人は、あまり無駄なことはしない。また人から見て無駄に見えることでも平気でやれる。自分なりにうまく行くと言うカン、確信に近いようなものがそこに働くからだろうと思う。

そういうものの存在を私が感じるのは、受験勉強などに関しては私はよくカンが働いたからだ。こういう勉強をすればプラスになり、こういう勉強は試験の点数に結びつかない、ということには非常にカンがよく働いた。もちろん勉強の絶対量が足りなければカンなど無意味だが、ある程度本気で勉強して合格しようと言う気のあるときはかなりの確率でうまく行っては来ている。まあ逆にこの種のカンが働きすぎて、(つまり要領がよすぎて)合格したあとに必要な学習量に達していないと言うようなこともありがちなことではあったが。

私がこの話を書き始めたのは、カンが鈍い、カンが鈍いから何とかそれを補おうと頭を働かせて思考では補いきれない部分まで思考で補おうとする傾向がある、ということを書こうと思ったのだ。

しかしよく考えてみると、上に書いたように、何かやるときにそのための努力の絶対量が足りないのにカンとか思考で何とかしようとしていると言うのが本当なのかもしれないという気もしてきた。

何をやるにでも最低限必要な努力というものはあるし、それをせずにああだこうだ言うのは時間の無駄というものだ。しかし思考のツボにはまっているときはそういうこと自体に気がつかないことも往々にしてある。そうすると思考がフル回転しても何も前に動かない、要するにその名のとおり「空回り」ということになるのだな。

まずはやろうとすることにきちんと取り組まなければ話にならない。そういう姿勢に問題があることがあるのだなと、改めて考えた。

何だ書きたいことがいっぱいあると言っても、少しだったな。


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