ミル『自由論』:悪魔の代弁者/真実の父/『ウェブ人間論』:敵と味方を切り分ける能力

Posted at 06/12/24

昨日。午前中、友人と電話で話しをしたあといろいろやっていたのだが、午後はちょっと眠くなって休んだりしていた。『赤と黒』も読んだがあまり進んでいない。

赤と黒〈上〉

岩波書店

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夕方になって少しマンガの新刊書が気になり神保町に出かける。新御茶ノ水で地上に出たときはもう暗かった。冬至を過ぎたからこれからだんだん日が長くなる、はずではあるが。以前よく行っていた喫茶店のビルが工事中になっていた。むかし付き合っていた人とよく行った店が閉店するというのはなんだか複雑なものがある。自分のその時代が完全に終わる、ということを意味するのだろうか。そんな気がする部分がある。人生の時代というのは、不意に、あるいは知らないうちに変化することも少なくない。

ブックマートに行ってみると期待したマンガはまだ発売されていなかった。4階の同人的なところと地下の身体論的なところを少し見て、三省堂と東京堂、あといくつか本屋を見るが欲しいものはなく。

ただ、そういえば文庫や新書の新しいのは見ていなかったなと思いなおし、三省堂の二階に行って多少物色する。目に入ったのはJ・S・ミル・山岡洋一訳『自由論』(光文社古典新訳文庫、2006)。何でこの本を手に取る気になったのか今考えてもよくわからないのだが、自由ということについてミルがどう書いていたっけ、ということが気になったのかもしれない。手にとってぱらぱらと見て、あ、なーんだ、と思ったり面倒なことが書いてあるなと思ったりしてそのまま戻す、ということがよくあるのだけど、翻訳の文体がじつに読みやすいのでしばらく立ち読みする。すると次の一節が目に入った。

自由論

光文社

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「教会の中でも特に不寛容なローマカトリック教会すら、聖人の位を認める際には「悪魔の代弁者」を議論に加えて、反対論を辛抱強く聞いている。とりわけ優れた聖者でも、悪魔が浴びせうる非難の言葉をすべて聞き、検討するまで、死後に聖人に列して栄誉をたたえることはできないとされているようだ。」(p.53)

これは自由な言論における反対意見の重要性を述べた一節であるけれども、私はそういうこと頃に魅かれたわけではなく、「悪魔の代弁者」という言葉が目に留まったのである。というのは、『インテリジェンス 武器なき戦争』の中で、佐藤優が「私はもう一つ別の仕事をやりたいと思っています。それは「悪魔の弁護人」です。」(p.181)と言っていたのを覚えていたからだ。この二つは本質的に同じものを意味すると思うし、おそらくは訳が違うだけだろう。悪魔を代弁し、弁護するような役割が「自由」においては重要だ、という主張は多分日本ではなかなかポピュラーにはなりえないだろうが、屹立した思想だと思う。

インテリジェンス 武器なき戦争

幻冬舎

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まあそんなことで、よくわからないけどこの本は現代的な問題を考える観点からも読む価値があるに違いないと判断し、買ったわけである。普段余り買わなそうな本なので、いちおう買った理由をあとづける。村上春樹も翻訳には寿命がある、と言っていた。多分、古い訳の『自由論』を手にとっても、おそらく読み通す気にならないだろう。そういえばshaktiさんも『ドンキホーテ』の翻訳について同じことを言っていた。問題は見るの思想自体が今現在読む価値があるかどうかだが、多分翻訳が読みやすくすぐ読めるだろうと判断した。まあ本を買うときもこうやっていろいろごちゃごちゃ考えはするのである。

地下鉄の中で読み始めたが、すべてが整理されて頭の中に入ってくるわけではないけれども、とても読みやすくすらすらと前に進む。かなりの部分が上滑りして字面を追っているだけに等しいだろうなとは思いつつ、それでも読むのと読まないのとは全然違うことを最近英語の速読の訓練から認識しているので、あまり気にせずどんどん読む。

読んでいるうちにどんどん面白くなってきた。言論を封鎖しようとする勢力に対し、それが以下に適切でないかを縷々述べている。そしてそれに対する予想される反論もたくさん取り上げ、それを諭すような説得するような調子で言論の自由の大切さを述べている。

これを読んでいると、現在のサヨク言説の動脈硬化ぶりに対しミルが懇切丁寧にこういうことはいけないんだよ、もっと自由な気持ちを持って反対意見を聞かなければ、と言い聞かせているような感じがしてきて大変愉快になってきた。「核保有は論議すること自体いけない」というような調子のおためごかしの言説にも、相当率直な有効な反論になりえているところが「古典の力」というものを感じさせる。思想的な巨人というのは、やはり圧倒的な「考える力」を持っていたのだなあと感心させられる。

現在の時点で読み終えたのは第二章「思想と言論の自由」までだが、これで既に本全体の半分行っている。あとは第三章「幸福の要素としての個性」第四章「個人に対する社会の権威の限界」第五章「原則の適用」というところだが、先を読むのが楽しみな感じがする。

読んでいて感じたのは、ミルと言うのは本当の意味で「父」のようなもの、「真実の父」だということだった。なんだか唐突で分かりにくい表現だが、読んでいると、いろいろと頭の中に生硬な議論が渦巻いている私自身を父に諭されているような気になってくるのである。私自身の実際の父はそういうところもあるがそうでないところも多くありそうでないところが非常に最近目立ってきているのだが、ミルというのはそういう現実的な関係を超えて全く私自身にとって「真実の父」のような気がするなあと思ったのである。

本当の意味で議論をすると言うのはいろいろな意味で困難がある。自分自身が確信というものがあまり強く持てない出来た面があるので、強力な反論にぶつかることを恐れる気持ちがやはり強いのだなと思う。しかしだからといって反論に直面しなければ、本当に自分の確信を強固なものにしていくことは出来ないし、それを恐れることはない、と言われているような気がする。そういう意味で、本来じつに男性的な論者なのだなということを読みながら強く実感した。

そして自分の意見と反論を常に対照させすべての反対意見を聞き、それによって徹底的に強化された確信を持って行動するという態度は思考原理としてだけでなく行動原理としてもじつにシンプルで力強く、素晴らしい態度であると思った。特に私自身などは思考においても行動においてもそこまで徹底できずに行き詰ることが多いから、そのあたりのことを叱咤されている感じもあり、そのあたりにもまた「父」というものを感じるのだろう。

何というか、いろいろな意味で納得するところがある反面、そんなこといってもちょっとなあと感じてしまうところもあったりするのもやはり「父的なもの」に感じるような種類のことなんだろうと思う。そして、それらのことを踏まえたうえで、もっと先のところまでいかなければならない、「彼」を乗り越えていかなければならないという思いを覚えることもまた、「父的なもの」であるからなのだろうと思う。

そのほかいろいろとなるほどなあと思うところがある。

「文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だと言えるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである。本人にとって物質的にあるいや精神的に良いことだという点は、干渉が正当だとする十分な理由にはならない。」

こちらのレビューによると、これは「他者危害禁止則」と呼ばれるものらしい。

こういうところを読んでいて、おそらく自分自身が20代の前半頃、この主張に近いようなことを実際に考えていたと言うことを思い出した。しかしいろいろな現実に触れているうちにそれだけでは不十分なのではないかということを感じてきたということが、こういう主張から自分自身を遠ざけていたのだろうなと思う。つまり、簡単に言えば「自由な個人」と言いえるような、たとえ未熟ではあっても、という人たちと主に付き合っている頃にはそれは一般原則として非常に正しいと思っていたけれども、仕事、特に教育の仕事についてまあ何というか「大衆社会の現実」のようなものに突き当たったり、「教育」というもののやや特殊な思想性に影響されたりしていると、「自由な個人」というものの存在自体が非現実的に思えてきて、あまりかえりみなくなってしまったということなんだなあと思う。そういう意味で、自分の思想性の中でも「父」というか、核になる部分が再度指摘されたということなんだなあと思う。古いおぼろげな確信、どこからか受け継ぎ自分自身で「若い確信」に至ったもの、だからこそこういう思想に「父的なもの」を感じるのかもしれない。

しかし最近、そういう大衆性や教育と言うものの持つ影響、はっきり言えば「毒気」のようなものがだいぶ抜けてきたせいもあって、「自由な個人」というものの存在がまたある種鮮明に見えてきたと言うこともあるのだと思う。確かに「自由な個人」を重視するのは19世紀的な発想であるし、大衆社会である20世紀の現実に即応していないところもあることはあるのだが、だからと言って「自由な個人」というテーゼの持つ積極的な意義は失われてはいないと思う。

この『自由論』は明治2年、まだミルが存命中(65歳)に中村正直によって翻訳され、日本で爆発的に読まれている。幕藩制が解体し新しい時代の思想を必要としていた日本人たちにとって、痛切に必要な思想が「自由で独立した個人」というテーゼであったことは想像に難くない。頼るものすべてを失って、なおかつ何に依拠してこれからの人生を生き、また新しい国をゼロから築き上げなければならないかと考えたときに、「自由な独立した個人」であることから出発して欧米に負けない国を築き上げなければならないと言うハードな現実に立ち向かう気概のようなものを供給したに違いないと思う。

社会というのは残念ながら「自由で独立した個人」によってのみ構成されているわけではないし、その国の文化によって社会と個人の紐帯のあり方は違うからこうした考えだけで世界を律しきれるものでもない。しかし、「自由で独立した個人」によって構成される社会という一つのモデルケースを考えることは意味のあることだし、そこで考えられることがそれを適用できない現実もまた存在するからといって全く無意味になると言うこともない。

たとえばニュートン力学は相対性理論や量子力学の誕生によってアウトオブデートな物になってしまったが、しかし現実にわれわれの日常的な世界においては十分適用できるものであり続けているのと同様に、「自由で独立した個人」によって構成される自由主義・民主主義国家というものを、たとえ日本の現実の中では思考実験に過ぎないとしても、前提として考えてみることは決して無駄ではないし、有益である、というようなことを思った。

また別の話だが、「他者危害禁止則」に戻る。

「この原則は判断能力が成熟した人だけに適用することを意図している。子どもや法的に成人に達していない若者は対象にならない。……同じ理由で、社会が十分に発達していない遅れた民族も、対象から除外していいだろう。……専制統治は、未開の民族に進歩をもたらすことを目的とし、実際にその目的を達成することで手段としての正しさを実証できるのであれば、正当な統治方法である。」

とミルは述べる。これはつまり、イギリスのインド統治などを正当化する論理にも使われていると言っていいだろう。このあたりはじつに微妙で、マルチカルチャリズムの立場から言えばこれは帝国主義的な暴言と言うことになるだろうし、啓蒙主義的な、たとえば伝染病医療などの立場からよく適用されがちだが、そういう立場からすれば依拠すべき、あるいは依拠せざるを得ない理論であるということになる。イギリスのインド支配は正当であったが日本の朝鮮支配は不当であった、などというのもこのあたりから引き出されてくる結論であるのだろうと思う。このあたりはアップトゥデートな議論になるので、それぞれの立場から「悪魔の代弁者」の説にもまた耳を傾けてみると得られるものがあるかもしれない。

まあそんなふうにして、いろいろなところでいろいろな思考が引き出せてくる、じつに面白く読みがいのある本だと思う。

***

『自由論』を読んでいて思い出したのが『ウェブ人間論』における平野と梅田の議論やはてな取締役会のエピソードだった。『ウェブ人間論』は読んでいて梅田の方により強い共感を感じたのだけど、平野のポジションもまたじつに意味があるわけで、梅田の思想をいろいろな面から批判的に明らかにしようとさまざまな議論を吹きかけるさまはまさに「悪魔の代弁者」の役割をしているんだなあと思った。まあそれが言って悪ければソクラテスの言う「産婆」の役割だと言ってもいいしそのほうがより妥当かもしれないが。ただネットの持つ悪魔性のようなものを平野は十分に認識していてそれを梅田に問いかけているのだからまあやはり悪魔の代弁者なのかもしれない。梅田は基本的にネットについては強い楽観論を持っていて、それがある種の信念でもあるし、平野の批判によってよりその楽観性も陶冶されただろうと思う。そのあたりもまた照らしなおしてみると議論と言うものの本質的な意味がまた確認されるように思った。

ウェブ人間論

新潮社

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また友人と話していて得心したのだが、梅田がリアルな出版の意義を再認識したとはてなの取締役会で述べたときに「ダークサイドに堕ちてますよ!」と批判されたという話は、要するに「既存のマスコミ=ダークサイド」であり、ネットで掬い上げられるロングテールの尻尾こそが希望の光だ、という彼らのシンプルな主張をよくあらわしているのだ。

これは梅田自身もそうなのだが、はてなの人たちも要するにそういう表現をとって「敵と味方」を上手に切り分けていく能力を持っている、というふうにいってみてもよいのだと思う。そのシンプルすぎる切り分け方に前に書いた書評では懸念を示したのだけど、ミルを読みながら考えてみると、こういう克服すべき状況があり(敵)、それに対して自分(たち)はこのように行動する、という行動基準としてみるとじつにシンプルで力強い、ということに気がついた。つまり、私などはどうしてもこういう記述を見ると認識論としてとらえてしまって、グレーゾーンを許さない狭量な未熟な発想、という気がしてしまうのだが、人間の行動として考えてみると結局は克服すべき状況を的確に認識した上で、明確な方針を持って行動することが最も状況に的確に対処することである、というかそれ以外に対処のしようはない(そうでなければ場当たりとかルーチンワークとかのレベルになる、もちろんそれが最も有効な場合もあるが)わけで、そのようにとらえるのが正当なのだということに気がついた。

そしてそれが、梅田の言う「変化の激しい世の中で個人がいかにサバイバルしていくか」という問題意識にもつながる。やはり梅田の発想には「自由」という考えが根本にあるし、ネットの新しい時代を切り開いていくためにはそういう「独立した自由な個人」としての発想が最も必要とされるのだろうと言うことも思った。

結局そういうふうに見ていくと、梅田と平野の違いと言うのは19世紀的な――ある意味では21世紀的でもある――「独立した自由な個人」という発想に立つ思想と、20世紀的な大衆社会――抑圧構造社会と別の観点から言ってみてもいい――のうんざりするような現実を克服するために個人として何をなすべきか、という発想に立つ思想の対立、と言い換えてもいい。象徴的な意味で私は前者を梅田的、後者を平野的と表現してきたが、もちろん実際の両氏がそんなにシンプルであるかどうかはまた別の話で、そのように取り上げられるのは心外だと思われることは危惧している。おそらくは平野氏はいわば意識的な産婆役(あるいは悪魔の代弁者)であったのであろうし。

***

まだ書きたいことはあるのだが、休憩。一度アップする。


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