何もかも明解すぎる/小説が描きえるもの/大衆化社会において倫理はどうあるべきか

Posted at 06/12/20

昨日帰郷。朝のうちにいろいろなことを片付けてお昼の特急に乗る。車中ではスタンダール『赤と黒』上(岩波文庫、1958)を読みつづけた。

赤と黒〈上〉

岩波書店

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村上春樹訳のフィッツジェラルドの作品をいくつか読んでいるうちに、今まで小説を読もうとして読めなかった壁のようなもの(特に翻訳小説に感じる)を越えるコツのようなものがわかってきた感じがして、今まで読めなかったり途中になっていた小説に再度チャレンジしてみようと思うようになった。最初は途中になっているフローベールの『感情教育』の続きを読もうと思ったのだが、書棚を探しても見当たらず、目の前にあった『赤と黒』に引かれたというわけである。『赤と黒』も最初の情景描写が延々と続くところがどうにも乗り越えにくかったのだけど、ネットでお勧めのようなことを書いている文章を読んだときに読み始めたら止まらなくなる、というようなことを書いてあったので、きっと上手く壁を乗り越えれば面白いのかもしれないと思い、読み始めたのである。それはどうも正しかったようである。

以前バルザックなどを読みかけたとき、人物造形が退屈だと感じていたのだが、今回『赤と黒』を読んでいるとまだ80ページあたりなのだけど出てくる人物が上手く書かれていると感じている。ヴェリエール町長レナ―ル、レナール夫人、ソレル爺さん、ジュリアンとそれぞれの造形が魅力的である。余談だが、ジュリアン・ソレルがレナール夫妻の子供たちの家庭教師をするという話の展開ははじめて知った。というのは、20年以上前になるが芝居をやっていたころ、『新宿のジュリアン・ソレル』という題のオリジナル作品をやったことがあって、主人公がやはり家庭教師をやっていた、という設定になっていた理由を、初めて理解したのである。レナール夫人にあたる人物と懇ろになるというのもストーリー通りだが、女性の造形は180度逆のホスト狂い、である。まあそれはすべて個人的に思い出して合点が行ったこと。

読んでいて最初に強く感じたのが、「何もかも明解である」ということ。登場人物の性格やその時の心理状態についてまさに「デカルト的明晰」という言葉どおりくっきりと述べられていく。作者にわからないことは何もないのだ。作者が「神の目」を持って小説を書くというのはもう古い、というようなことをどこかで読んだが、「神の目」というものをかなり極めているのがスタンダールなのだなと合点がいった。呼んでいると一点の疑問も残さないクリアーな清々しい透き通った空気の中に人間の心理というものが純粋培養されたような形で展示されている。思い出したのがファン・アイク兄弟の絵だ。ファン・アイクの隅々まで手を抜くことなくクリアーに、近いところも遠いところも同じように精密に描き出された、そういう小説だと感じた。私は近視がかなり進んでいるのだけど、メガネを作り直すときに度を少し強めると、シンジラレナイくらいクリアーに見える、あの感じに近い。

しかし曖昧なところがないわけだからフランスの田舎の事情など理解できないものにとってもとても面白く読めるということなんだなあと思った。

そしてもう一つ、読んでいるうちに起こって来た感情の動きがある。舞台は王政復古期のフランス。おそらく1825年頃だろうか。革命とナポレオンの嵐が過ぎたあとの、いわゆる「反動期」である。主人公ジュリアンは職人の三男で華奢な美少年。製材所を営む父親や兄たちからは厄介者扱いされるが、ボナパルト派の老軍人から昔話を聞き、誠実な老司祭から聖書をラテン語で読むことを学んで、町長の虚栄心から子どもの家庭教師に採用される。そこに出てくるのはウルトラ(ウルトラモンタン、つまり「山の向う」のローマ教皇に忠誠を誓う超保守派)であるとか王政復古派の貴族・金持たち、バルナ―ヴらフイヤン派の流れを汲む自由主義者(スタンダール自身もこれに属すると考えていいようだ)、そしてナポレオンを崇拝するボナパルト派とさまざまに政治的にも思想的にも多様な人びとである。

私は今まで小説が苦手だったのでこういうものをあまり読んではこなかったが、修士課程ではフランス革命を専門にしていたのでそういう人間像を史料や歴史書の上からは見てきていた。私が好きなのは主にジロンド派で、だからボルドーを中心に論文を書いたのだが、そのあたりも関心の中心は人間群像というか、いわば小説的なものであったなと思い返してみて思う。フランス革命を研究対象にしたのは実際に教育の仕事に携わっていてその崩壊ぶりに傷つき悩むうち、「民主主義とはいったいなんなのか」という疑問をもち、民主主義の原点といえばフランス革命だとその時は思ったので、研究を志したというのが始まりである。数年かなり身体的な犠牲を自らに強いながら勉強してみてたどりついた結論は、「フランス革命とは遥か昔に起こった遠い国の出来事である」ということだった。つまり、フランス革命を研究しても実際の日本の惨状を改めるにはあまりに遠すぎる、というまあ今にして思えばあたりまえといえば当たり前の結論なのだが、まあそういう迂遠な発想しかその時の自分には出来なかったのだなと今では思う。

民主主義という問題に関してはやはり日本の進歩派・左派の歴史学者たちがフランス革命を理想化して、つまりそれはロシア革命を賛美するためにそのモデルとなったフランス革命が理想化されたわけだが、だからそこに問題の焦点があるとその時の自分は思ったのだけど、今考えてみるとむしろ革命という歴史現象そのものよりも啓蒙思想・社会契約論・人権思想といったそちらの方をもっと徹底的に考え直したりあるいはイギリスやアメリカに付いてももっと目を向けて民主主義の特質というものを民族性と絡めながら考えなければならなかったなと思う。そういう意味では民主主義を解明するという目的から見ると迂遠な事をしてしまったが、結果的にフランス革命そのものについてはもちろんそれなりの知識や気づきは得たわけである。

『ウェブ人間論』の書評にも描いたように、社会の中の個人がどう行動すべきか、を重視する平野氏的な考え方に特に教育の現場にいてその惨状に鬱々としていた頃には強く囚われていて、結局精神的にも肉体的にも限界を超えてしまい退職したあともその思いの重さだけは残っていたのだけど、梅田氏的な否応ない社会の変化の中で個人はどうしたらサバイバルしていけるか、という考えが自分の中にももともと強くあることに気づいたので、むしろそういう呪縛からはなれて自由になることが今の自分には必要なのではないかと思ったのである。そのように考えてみると誇大なまでに大きかった社会的使命感のようなものがある種の幻であるように感じられてきたし、逆にそのフィルターを通してしか外界が見られなくなっていたために返って見えなくなっていた自分自身の問題点のようなものもクリアーに見えてきて、しなければいけないこともそして生きなければという意欲も自分の中から強く湧き起こっているように感じられたのである。

まあそういう意味で言うと、その誇大な使命感というものがある種の鬱的な状態の引き金になっていたのだろうなと思う。むしろ自分の身の丈に合った関心や意欲のようなものと付き合っていると、自分の出来る範囲内で何かをしていこう、世の中を少しでもよくしていこうという気持ちは自然に出てくる。根本的に私は社会にドラスチックな変化というものが必要だという「革命」的な考えに否定的なのだが、こうした過剰な使命感のようなものに対する無意識の拒否反応のようなものがそこには働いているのかもしれないと思う。

『赤と黒』を読んでいて感じ始めた心の動きというのは、つまりは歴史を生き生きと解釈する小説の役割というか、そういうものに強く引かれたということである。歴史家というものは基本的に歴史小説というものを低く見るし役に立たない、むしろ有害なものとみなすことが多いのだけど、小説というものはある意味実証的な歴史には許されないやや踏み込んだ仮説の提起や歴史的人物の行動の解釈という点において、お互いに実証的な歴史と補い合うことが出来るものだと最近は考えている。もちろん題材をその時代に取っただけで荒唐無稽な話の展開や解釈をして読者にアピールすることだけを考えたような小説ではあまり益するところがないが、ある種の誠実に書かれた歴史小説にはそれなりの役割があると思う。小説に示されたアイディアの中に歴史解釈にとってプラスになることもどこかにあると思うし、特に同時代に書かれたいわゆる「名作」の中には時代背景の解釈などにおいて大変有益なものは多くあるように思う。

つまり、今まで歴史的な観点から知っていたさまざまな知識や社会のようすが、『赤と黒』を読んでいると実際に血が流れ息をしているように感じられ来る、という思いを持ったのである。

梅田氏的なものと平野氏的なものに関連して、ポール・マッカートニー的なものとジョン・レノン的なもの、あるいはプーシキン的なものとドストエフスキー的なもの、またフィッツジェラルド的なものとヘミングウェイ的なもの、というように各国の文学について考えて見ていたが、これをフランスについて考えて見るとスタンダール・フローベール的なものとユーゴー・バルザック的なもの、という感じになるなあと思う。こうして考えてみるとやはりフランス文学というのは絢爛たる感じになるなあと思いつつ、やはり前者の方に私は明らかに心が引かれる。

もう一つ感じたのは、『赤と黒』の細かい章立ての仕方がウォルター・スコットの『アイヴァンホー』に似ているな、ということである。『アイヴァンホー』の組み立ても細かいが、『赤と黒』もまだ80ページなのに7章目である。プーシキンもスコットには強い影響を受けているけれども、ほぼ同時代のスタンダールもやはりかなり影響を受けているのではないだろうか。スコットもまた前者の範疇に入る気がする。後者の範疇に入るイギリス文学がとりあえず思いつかないけど。

もう少し余談を続けよう。フランス革命は遥か昔の遠い国の事件と書いたけれど、「大衆化」とそれにふさわしい「倫理の構築」という点で、日本の戦後と王政復古の時代に代表される19世紀フランスは同じ問題点を共有しているように思う。日本の戦後は先に急激な改革があってあとから時代にふさわしい倫理の構築が問題になったので1968年前後の時代にはそれが焦点になったのではないかと思う。

新しい大衆社会に即した倫理の構築には、当然その前の階級社会に即した古い倫理の破壊が必要とされるわけで、マルクス主義というものがもてはやされたのはその暴力的な革命の理論によってその破壊が正当化されるところにあったのではないかなと考えてみた。急激にマルクス主義が用無しにされていったのは、つまりは「古い倫理」が破壊し尽くされてもう破壊の必要がなくなったからではないだろうか。もちろんフェミニズムなどまだ神経症的に破壊を進めるグループも残存してはいるけれども。

そういうようなことは最初に書いた「民主主義とは何か」という問題、そして現在の教育の崩壊の惨状にもまた関わってくることだろう。結局この大衆化の時代に最もふさわしい、最も秩序構築的(社会安定的といってもいい)な教育体系の確立に明らかに失敗しているのである。このあたり社会の秩序構築には何かに対するフィデリテ、つまり忠誠心の教育が必要なのだと思うのだが、(アメリカでは国旗に、ソ連では社会主義に対する忠誠心が要求されたように)まあそのあたりのところに踏み込むことは止めておこうと思う。価値混乱的な現状の日本においては最も難しい問題ではあるが、教育基本法の改正というのはそういう問題に踏み込むものではあった。「大衆化社会の道徳」というのは最も困難な、そして最も必要な考究されるべきテーマなのだろう。平野氏的な物言いにどうしても引っ張られるのだが、多分これは梅田氏的な観点からも考えていいことなのだと思う。というか、仏文学者が社会に影響を与えるときの発言などはそういう観点に立って発言されているんだろうなと蛇足的に想像したりする。


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