フィッツジェラルド・村上春樹訳『マイ・ロスト・シティー』
Posted at 06/12/12 PermaLink» Tweet
村上春樹訳のフィッツジェラルドの短編集、『マイ・ロスト・シティー』を読んでいる。これは先にも書いたが村上の最初の訳業ということで、最初に「フィッツジェラルド体験」という短いエッセイおよび簡単なフィッツジェラルドの評伝が載せられ、「残り火」「氷の宮殿」「哀しみの孔雀」「失われた三時間」「アルコールの中で」と5編の短編と「マイ・ロスト・シティー」という1編のエッセイが収録されている。今のところ、「哀しみの孔雀」まで読了した。ただ、あとの3篇がいずれも10ページあまりの小編なので、残りはもう4分の1である。
以前読み始めたとき、「残り火」の最初の情景描写が読みつづけられずに投げ出したのだが、今回はそこの「難関」を突破するとわりあいするするとその世界に入ることが出来た。読み終えて、これはある意味とてもモラル的な小説だという感想を持つ。
しかしモラルとは何だろう。モラルとは生活の形式に過ぎないのではないか、と思った。古いの新しいの、というのが、何か意味のあることだろうかと。新しいモラルが、欲望に忠実で、いわば「ナチュラル」であったとしても、その方がより価値が高いというわけではない。古いモラルが自らの欲望を妨げるので、それを変更する口実をナチュラルとか新しいという言葉に求めているに過ぎないのだろうと思う。モラルは変わる、生活が変わるのだから。しかし新しいモラルのほうがより価値があるわけではない。人は弊履のように古いモラルを捨てるけれども、新しかろうと古かろうと、よいものはよく、美しいものは美しい。そしてそうでないものは、そうでない。「残り火」に映されているモラルは、古いけれども美しく、その美しいものを描くのに、フィッツジェラルドは長けている。
訳者の村上は、そのフィッツジェラルドの古さをどうにも否定的に捕らえてはいて、その辺が賛同できないのだが、しかし一方確かにそれに引かれてもいて、そのあたりの矛盾を生きているのが村上という作家なのかもしれないとも思う。私はわりあい古くても美しいモラルの描写というものに特に留保をつけたいとは思わないが、そこに留保をつけたくなるのも世代の違いということかもしれないとも思う。
読みながら、フィッツジェラルドはいわばアメリカ文学におけるロシア文学でのプーシキンの役割を果たしているのではないかと思った。「深みがない」などと言われながらその比類のない美しさでロシア近代文学の輝ける祖になったプーシキン。プーシキンとモーツァルトが似ているとはよく言われていることだが、フィッツジェラルドもそのあたりよく似ている気がする。ロシアにおけるドストエフスキーの役割をになうのは、とりあえずヘミングウェイだろうか。そういう二元論をまた頭の中で弄ぶ。
「氷の宮殿」。なんだか身も蓋もない話だなと思う。南部人は北部では暮らせないし、北部人は南部人を理解することは出来ない。その象徴としての「氷の宮殿」というのは、美しく人工の造形の美を凝らしてはあるけれども、ひとたび歯車が狂うと恐ろしい迷宮と化してしまう、北部的な現代文明のある意味での象徴と見ることも出来る。陰鬱な北欧人が作り上げた陰鬱な北部の町。北欧人の自殺率は世界一だという話が出てきて、何だこの時代からそうだったのかと思う。こういうある意味ステロタイプな題材を実に深いものにしていくのがフィッツジェラルドは上手い。ヘミングウェイは題材自体が奇抜で喝采を呼ぶような話を書くので、フィッツジェラルドは劣等感を持っていたようだが、70-80年後の現代になってみれば題材自体の新しさの意味はなくなっているから、どこまで深いところに達しているかという問題になり、そういう意味では別の方向ではあるがフィッツジェラルドの到達したものの方が私には心ひかれるものがあるということなのだろう。以上二編はフィッツジェラルドがデビューの年、1920年に書かれたもの。悲劇を書いても基本的に明るい。アメリカの明るい時代の作品。
「哀しみの孔雀」。20年代を謳歌したトップ金融マンが転落していく1930年代。20年代の夢の時代、パリでの生活を経験した娘との二人暮し。妻は不治の病で入院し、仕事はなく、持っている農場で生産されるソーセージは不出来である。ついには親の代からの銀器などまで質入を余儀なくされ、屈辱に塗れる。死のうと決意したところで私立校から公立校に転校した娘が問題を起こしたことを知り、おそらくは娘のために生きることを弱々しく決意する。病床の妻との会話でソーセージの問題点に気づき、また娘にラテン語と数学を教えようとして全くわからなくなっていることに途方に暮れるが、男はもはや絶望はしない。
「ねえジョー、一週間のうちにはもっと出来るようになるよ」
「わかったわ、パパ」
「そろそろおやすみ」
二人の間に心の通い合う沈黙が下りた。
「おやすみなさい」と娘は言った。
これは死と再生の物語なのだろう。30年代の苦境を描いたというと思い出すのはスタインバックの『怒りの葡萄』だが、あれもまあ言えばそういう物語だ。エマーソンの超越思想が反映しているというのをどこかで読んだが、フィッツジェラルドにもまたある種の信仰、ある種の祈りがある、と言っていいだろう。ふと思ったが、この小説はミラーの『セールスマンの死』とよく似ているところがある。舞台背景が同じかどうかはわからないが、「万能の父」の転落という構図は同じだ。ミラーでは子どもは男の子だが、フィッツジェラルドでは女の子で、そのあたりがフィッツジェラルドの華やぎの源泉なのだろう。
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生きなければいけない。その思いがつまりは、生への祈りそのものなのだと思う。
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