昔の「大人の男の人」/教養は復権しつつあるか

Posted at 06/12/07

昨日。やや体調が落ちていたのでどうもあんまりものごとに積極的でなかった。やろうと思っていたこともあまりやらなかった。少し集中して片付けたことも二三あるのだが、そのあとまた調子が落ちたりしてまあそういう状態。とにかく寒い。夕方、どんどん気温が低下していくあの感じが、たまらなく体力を奪っている感じがする。ほんとうに寒くなるとそういうのにも慣れるのだが、まだまだ冬の入り口で、体がついて行っていないのだろう。要するに軽度の風邪引きの状態だと思うのだが、本格的に寝込む余裕はないのでとにかく無理はしないようにしている。

入江相政『いくたびの春』読了。今までもいろいろ書いたので特に新しいこともないけれども、ざっくばらんでそれでいて教養があり、気が利いていて蛮勇も奮える、といういわゆる「オールドリベラリスト」の肖像を見ているかのようだ。実際には宮中で文字にはできないようなこともたくさんあったにはちがいないが、そういうことはすべて腹の中に納めて読者が楽しめるようにいろいろ書いている。こういうスタイルが昔の「大人の男」というものだったんだよなあと思う。

いくたびの春―宮廷五十年 (1981年)

ティビーエス・ブリタニカ

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FMからボブ・ディラン。懐かしい。今でもディランは新譜を出すとヒットチャート1位にあがるという。すごいことだ。デビュー50年位にはなるだろうが。

いろいろなサイトを見ていて、「教養」ということについて少し考えた。ここ暫くずっと「専門」指向が強かったが、最近一部で「教養」への回帰というか、教養指向が学生の間で強くなってきているという話だ。入江の本など読んでいるとまさに教養のかたまりで、「狭衣物語」が専門だといっても、まさに教養の範囲内でそれを深めたというものだろう。教養とは「生き延びる力」だ、と誰かが書いていたが、それはそうだろうと思う。専門はとにかく飯を食うのに必要なものだが、そのために人間はかなり偏りのある存在にならざるをえない。専門指向の強い時代は私のような人間は肩身が狭く、まあいろいろなものを専門のような振りをして過ごしていたが、また教養が重んじられる時代にバックしていくと私のような人間にはありがたい。教養というと聞こえがいいが、つまりはいつまでもひとつのことに熱中していられない性格で、どれもこれもそこそこ、というようなものだ。

ただ、これだけ専門分化の進んだ世の中になると、結局各専門家間をいかに結びつけ、コーディネートするか、段取りをつけるか、というようなことが重要になってくると思う。そうするとインター専門というか、どちらもある程度理解している、つまり「常識」や「教養」がその場合にはポイントになるだろうと思う。専門家というものは基本的にわがままなのでその間の調整というのはけっこう大変だが、それをコーディネートしていく存在がなければ、役所のようにセクショナリズムと縦割りの弊害で苦しむことになる。そういう役回りの重要性と価値を、もっと正当に評価して行かなければならないと思う。

そしてこういうことは思うに、英米人は得意とし、日本人は苦手とするようなことではないかという気がする。

実際、各専門家間の言葉の通じなさ加減といったらすごい。全く理解不能な世界観を持っている人も多くあるので困ってしまうのだが、それは結局は人文主義的な教養の不足に由来するものなんだろうなあと思う。もちろん人文慶の人ももっと自然科学系の教養に配慮すべきなのだが、各専門によって世界観が異なってきたりお互いに理解不能な哲学を持ったりするようになると、人類という種の危機ですらあるんじゃないかという気がするなあ。

まあいろいろな意味で、教養の復権というのは急務だし、もしそれが回復の兆しがあるのなら、喜ばしいことだと思う。

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