懐かしい人に会う/思ったよりずっと凄い人なのかもしれない

Posted at 06/10/19

今朝は寒い。濃い霧が降りている。ここ数日、日中は相当気温が上がって汗ばむくらいなのだが、朝夕はとても寒い日が続いていて、秋も深まってきたなと思う。ナナカマドの実も色づいてきたし、紅葉も少しずつ進んでいる。

今朝は時間がなくてあまりかけないのだが、昨日読んだ、というか少しずつ読んだ二冊で感銘を受ける部分がそれぞれあった。一冊は西川栄明『木の匠たち』。木工家槙野文平の項で白洲正子との交流が出てきた。白洲は槙野の作品を見て「乱暴だけど面白いわねえ」と言い、特に修行はしていないということをいうと「そうだと思った」と言ったという。鍛冶に走ったりすると「家具屋は家具を作れ」といい、「絶対に上手くなるなよ」と言ったという。また椅子を作るようにいらいしたときの葉書が残っていて、「椅子を作ること。もうぢき死んぢゃうのだから急ぐこと 白洲正子」とあの白洲の字で書いてあって可笑しかった。なんだか懐かしい人に思いがけないところで出合ったような気がした。

木の匠たち―信州の木工家25人の工房から

誠文堂新光社

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もう一冊は小川洋子『深き心の底より』。あまり考えないで読んでいたのだが、ときどきびっくりするような言葉に出会う。最初は何の気なしに読んでいても後で心に深く入ってくるような。「深き心の底」というのが決して修辞ではなく、ものを作る行為の本質が底にある、ということがわかったときも驚いた。ホロコーストを描いたエリ・ヴィーゼル『夜』の中で、収容所を爆破したかどで幼い少年が処刑されるとき、「神さまはどこだ、どこいおられるのだ」とだれかが呟いたとき、心の中でエリ少年は「どこだって。ここにおられる―ここに、この絞首台に吊るされておられる」という。この言葉は神の死を意味しているように思われるが実はそうではなく、そこに新たな紙を見つけたのだ、という小川の指摘はやはりある種恐ろしい。人が物語を作り出しながら生き、物語の力によって生きているということを小川は確認しているのだ。そしてその働きを失ったとき、人間のたましいは死ぬのかもしれないと思った。

深き心の底より

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甲野善紀のサイトで「肉体が死んでも霊魂は死なない」のではなく、「霊魂が死んでも肉体は死なない」のであり、そちらの方がずっと恐ろしい、というようなこと(かなり私が恣意的に解釈しているが)を書いていて、そういうものと通じるものがあった。

小川洋子は今まで二冊だけしか読んでいないが、思ったよりずっと凄い人なのかもしれないと思う。作家には作品の凄さに惹かれる人もいるし、作品より作家そのものの考え方やそういうものに惹かれる人がいるが、小川は私にとっては後者だ。自我の殻の下にある深き心の底をのぞき、そこへ降りていくこと―それは村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』の中に出てくる井戸のイメージに重なるのだが―こそが、今自分に必要なのではないかと考えさせられている。

2005年5月に休止した詩のメールマガジン『詩の林檎』を近々復刊します。ご興味のおありの方はそちらもどうぞ。

Too Many Expressions ―表現狂時代―というサイトを作りました。人間の行動の根本にある表現とその可能性について考えていきたいと思っています。このブログおよび『読書三昧』もその一環として位置づけなおす方針です。

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