オーケストラで腹痛を起こす/不満と不安

Posted at 06/09/10

昨日は、朝から松本に出かける。松本文化会館でサイトウキネンフェスティバルの演奏会があり、ゲネプロの招待状をもらったのだ。松本文化会館は松本駅からはかなりあって、バスは長蛇の列だった。別系統のものに乗って、20分ぐらいだろうか。10時過ぎに会場に着いた。演奏は11時から。かなりたくさんの人が既に集まっていた。

演奏前から少し調子が悪くなっていたのだが、会場に座ると腹が痛い。しかも乾燥しているし、冷房も吹き付ける。場所は、2階席の一番後。4階まで上ってすぐのところだ。いつもはあまりよく見えない打楽器がよく見える。最初は笙とオーボエの現代音楽。よく知らなかったが、あとでプログラムを見たら武満徹だった。天上桟敷とはよく言ったもので、自分が芝居をやっていた頃の、証明の調整をしていた場所からの眺めに良く似ていて、証明の調整や舞台装置の配置をいちいち観察しているような気分になった。

2曲目はベートーベンのピアノ協奏曲。よく聞いたことのある曲だったが、曲名はそのときは分からなかった。あとで確認したら協奏曲5番の「皇帝」だった。ベートーベンらしく華やかな曲。そうそう、ほかの曲で使われたモチーフにちかいメロディがよく出てくる曲だなと思った覚えがあった。指揮は小沢征爾。この人の指揮を見るのは二度目だが、(前もサイトウキネンオーケストラのゲネプロだった)楽しげな指揮でいい。体調不良でウィーンの国立歌劇場の音楽監督の仕事をキャンセルしたと聞いていただけに、体調はどうなのだろうと思ったのだが。

演奏が終わると、小沢がいろいろ指示を出し始めた。言っている内容はよく聞き取れなかったし、早口だし、よく聞こえても意味が分からなかったと思うが、いろいろなところを確認したり指示を出したりしていた。演奏しなおした箇所もいくつか。なるほど、先ほどの演奏とは少し感じが違う、などと思ったり。演奏中ずっと腹が痛く、どうなることかと思ったが、とにかく持ちこたえた。あとで確認して驚いたのだが、ピアニストは内田光子だった。ゲネプロでみな思い思いのTシャツやら普段着を着て演奏しているのでみんなそこらのおっさんおばさんあんちゃんねーちゃんという感じだったのだが、ピアニストも全然目立たなかったなあ。内田光子ならもっと心して聞けばよかった。こういう演奏をする人なんだ、と思いながら聞いてはいたのだけど。

3曲目は交響曲で作曲者は分からなかったがロマン派的。聞いたことがあることは確かだ。後で確認したらショスタコーヴィッチの5番だった。各楽章の最初の音がどれもこれも印象的。やはりオケの生音はいいなあと思う。体調がもっと良かったらもっとよかったのだが。とにかく寒くて用心のために持っていったカーディガンを膝にかけたりはおったり。両方に使えないのが困る。喉が乾燥しないように両手で鼻と口を覆って呼吸する。打楽器が面白くて、ずっとティンパニと小太鼓の動きを見ていた。トライアングルやシンバルもいいなあ。何の音かついに分からなかった音もあった。高いところからだと全体が見えて面白いことは確かだ。

これも演奏が終わったあと小沢が指示をいろいろ出していて、こういうのって面白いなと思う。以前ゲネプロを見たときは全部さらってそれでおしまい、だったが、こういうのは臨場感があって面白い。

しかし、実は以前サイトウキネンを見に来たときはその日に体調を崩し、(大晦日だった)正月中高熱を発して寝込む羽目になったので、今回の体調不良もちょっと気になった。腹は演奏が終了してもまだ痛い。バスは長い行列だ。とにかく冷えたせいが大きいと思い、歩くことにした。炎天下を歩く歩く。足はふしぎに良く動く。腹はずっと痛い。松本の町の、あまり歩いたことのないあたりを歩き続けて、こんなところにこんなものがあったのか、と思うものがいろいろ。しかし腹が痛いし観察する余裕もない。30分くらい歩き続けただろうか、ようやく知った場所に出てきた。そこからさらに10分ほど歩いて、ようやく駅に到着。時刻を調べて2時34分発の普通電車に乗り、特急に乗り換え、東京に帰ってきた。

朝から何も食べてなかったので、そのせいもあるかと思い、おにぎりとポカリを買って車内で食べる。案の定、少し落ち着いてきた。上諏訪で特急に乗り換え、車内販売で弁当を買って、無理やり詰め込む。そうすると見事腹の中が落ち着いてきて、驚いた。急いで乗ったので自由席だったのだが、結構混雑していた。新宿に着いたのはもう暗くなり始める時間。地元の駅で降りて夕食の材料を買って帰った。ようやく人心地がついた。

***

帰りの電車の中では休み休みアルヴォン『無神論』を読んだ。ヨーロッパ思想史における無神論と有神論?の論争の真摯さというものがよくわかる。唯物論的無神論と、人間主義的無神論、という分類にもなるほどと思うところがある。当たり前のことなのだが、ヨーロッパの無神論はヨーロッパの思想的論争の歴史の中から生まれてきたものだから、無神論はキリスト教の生み出した産物の何を認め、何を排除すべきかという問題が起こってくる。無神論にも教義論争が起こるわけだ。今まで読んだ中ではそれに対しもっともラジカルなキリスト教に対する否定をしているのはニーチェだと思う。キリスト教の神を「死んだ」というだけでなく、キリスト教が生み出した道徳すべてを「らくだ」の道徳として否定し、それを否定する「獅子」の思想、それにまったく囚われることのない「幼児」の思想を持たなければならないという展開は、いつものことながらダイナミックな魅力を感じる。

無神論

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一方マルクスは宗教を否定するがそれ以前に人々が宗教を必要とする理由、社会的不正義や不公正をなくせばおのずから宗教はなくなるという理由で、つまり宗教は病であるがその根本原因を除去すれば健康になる、という路線を取るわけで、まあなるほどと思わなくもないが、マルクス主義国家が崩壊の一途をたどっているところを見るとその人間観そのものにどこか誤りがあったということにならざるを得ないだろう、そんなこと敢えて言うほどのことでもないが。

アメリカン・リベラル的な無神論がどのような系譜を持ちどのような思想展開がなされてきているのかについてはまだ自分としてもよくわからない。アメリカのエヴァンジェリストの流れも最近ようやくおぼろげながら少しは見えてきたというくらいだし、無神論の潮流ということになるとまだどのような研究がなされているのかさえよくわからない。どちらにしても、無神論もまた、ひとつのアンチ宗教という名の宗教、という感じがしなくはない。マルクス主義が宗教的な雰囲気を湛えているのと同様。同じ宗教なら、カルトのような有害なものではなく、健全なものであるべきだとおもうが、そこもラディカルになりすぎると危険だ。ニーチェのような魅力的な展開をできる思想家はそう多くはないように思う。

***

ただ、この本を読みながら、自分自身のことについてもいろいろなことが考えられたのは思わぬ収穫ではあった。エピクロス主義はたましいの平安、アタラクシアということを言うが、つまりこれは「恐ろしい神の不存在」を知ることによる人間の安心、という意味になる。「神の存在」が「不安」をもたらす、ということである。それは神は人間に義務を課すからであり、その義務を果たしえない人間存在は常に不安に陥らざるを得ない、ということになる。まあこういう意味では今の日本人の非常に多くがそういう意味での「不安」を感じず、何でもありの心境にいることがさまざまな社会の混乱や犯罪の状況にも現れていると思われるし、そういう意味でのエピクロス的無神論は日本では相当な勝利を収めているだろう。そのなかのどれくらいの人がエピクロスを知っているかは疑問だが。

ある意味たましいに不安がない、というのはなんだか不自然なことのような気もするが、「ある種のアメリカ人」とか「勝ち組といわれるひと」にはこの種の不安が存在しない気がする。それはつまりある種の確信を持っているということで、ある意味凄い。決定論的に世の中を見ることが出来るということである。私にはそういうのはデリカシーなのかインテリジェンスなのかは分からないが何かが欠如しているようにしか思えし、どうもある種の魔(ラプラスの魔に類したものか)を感じる。ただまあそういう「信念」を持っているほうが「成功」しやすい世の中であることは確かなようだ。

この本を読んでいて次第にはっきりしてきたのは、「不満」と「不安」とは違う、ということだ。そんなことは当たり前だといわれるかもしれないが、私にはどうもあまりその違いがよくわからなくて、今でも下手をすると混同しそうだ。そして、なにかテーゼにするならば、「満足している人間は不安を感じ、確信を持つ人間は不満を感じる」、ということになろうか。

20年前の自分を考えると、おそらくは不満だらけであり不安に満ち満ちていたと思う。自分が何者かも分からず、何をしていいかも分からず、何がしたいのかさえはっきりしない、それでいて強い不満だけは感じている、というような。感じ方の違いはあれ、誰もが似たような不満や不安の嵐にあっているのがいわゆる青年期というものだろうと思う。

しかし不満と不安というのは根本的に違うわけで、不満は欲望の発露であるが、不安は確信の不足だと言えるだろう。自分にとって、不満ということは多分そんなに大きな問題ではなかった。だから、そんなに不満に悩まされるということはなかったような気がする。しかし、不安にはもう一貫して逃げられないものを感じていて、それはやはり確信できることの少なさに由来するものだったのだと思う。

しかし世の中、というものは不満は感じるが不安は感じない、というタイプが成功するものだから、つまり確信と欲望、別の言葉で言えばヴァイタリティを併せ持つ人間が成功するものだ。そういうタイプでないとしたら自分を世の中にどう位置づけるべきかということになるし、そういうことはなかなか難しい。ある社会状況でうまく言っていても変化していくとその居場所の状況も変化していくわけだし。

まあそういうことを考えるとその居場所として、宗教というものの存在の大きさということに改めて目がいく。宗教を信じることによって安心立命を得るということだけでなく、宗教の内部でその問題と向き合い、それを乗り越えていく場所があるということは宗教の持つ大きなメリットであると思う。

私も靖国神社についても基本的にはそういう文脈で語られるべきだと思う。宗教と政治の問題についてはどうしても政治の側からの発言ばかりになってしまうのだけど、宗教の側からのもっと素朴な視点からの問題提起があっていいのだろうとおもう。

まあそれは置いておいても、一元的な競争原理に走れば走るほど、人間の多様性はそれへの不適応を起こす部分の拡大に必ずつながると思う。そういう意味ではますます宗教の重要性は高まっていくだろう。無神論という宗教に頼る人も増えていくことは考えられるが。

いずれにしても欲望に突き動かされる競争原理のみが正しく、それにおいて「自由で公正」であることがすべてだという理屈が本当の意味で公正であるとはとても思えない。人間にはやはり「たましいの問題」があるのであって、それを考慮しそこでの議論や話し合いや助け合いが行われることは、人間社会において絶対的に必要なことだ。そういう問題を軽視する人間はやはり軽薄なのだと思う。

今朝は空腹を避けるために朝食を取ってみたが、どうもまだ腹の具合は万全ではないな。しばらく様子を見ていかなければと思う。

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