歌いすぎ/無神論と懐疑主義

Posted at 06/09/08

昨日。早めに仕事場に行き、仕事の準備とか。仕事はやや忙しく。夕方地元の友人から電話が入り、仕事が終わったあと飲みに行くことに。9時半まで仕事をしてそのあと小料理屋で一杯飲む。久しぶりだったのでどうも話がはずみ、その店が看板になったあとカラオケボックスで少し話をしようと言ったのだが、結局歌ってしまい、店を出たら4時を過ぎていた。雨の中歩いて帰り、寝たのは5時近くか。目が覚めたのは7時20分でということはほとんど寝てないに等しいな。朝いろいろやることをやってから日記を書いているが、もう10時だ。仕事前に少し休息を取っておかないとまずい。

昨日はアルヴォン『無神論』(クセジュ文庫、1970)を読み進められた。ヨーロッパにおける無神論の系譜はデモクリトスに始まり、エピクロスに受け継がれるという基本的なことを知って感動。こういう方面にいかに疎いかということがよくわかる。リベルタン、フランス自由思想家の流れもこのエピクロス主義の復活という意識があったようだ。「無神論は迷信より好ましい」という主張は現代でも受け入れる人が多いかもしれない。「迷信」が人種的偏見に結びつく場合の害というものを想像したりすればそれは理解できるが、だからと言って無神論が肯定されるべきかということとは別の問題のように思う。

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この中で懐疑主義の話が出てきて、あとでヒュームにも触れられている。懐疑主義というのを今までよく理解できなかったのだが、つまりは「神は存在するか、しないか」というどちらにも断定できないことは判断停止(エポケー)すべきであるという主張なのだと理解。そういうことは私などは現実面ではしょっちゅうやっているが、それが哲学的に説明できるとは知らなかった。というか、そういうことならそういうことと簡便な辞典等でも説明しておけばいいのにと思う。

またネットでエポケーを検索してみると、行動の方法論として、考えても理解できないことはまず実行してみようという態度への応用をエポケーとしているのを見つけた。未開人(PC的な言い方がわからん)がなぜこういう行動をするのか理解できないときに、とにかく同じようにやってみることによって理解できることもある、という方法論と理解していいのだろうか。どちらにしろこのあたり、ずいぶん広がりのある話なのだと知った。懐疑論と不可知論の関係もまたよく読まないとわからないが、こういう考え方は私には親しみやすい。自分の「神」に対する態度にもこういうものに近いものがある。神は存在する、という方向に少し踏み込んでみることによって理解できるものがある、という態度。

いずれにしろこのあたりを理解することで西欧哲学の構図が以前に比べてよく見えるようになったと思うし、興味も湧いてきた。もう少しこのあたりの本を読めばこれらの問題について多少はましなことが書けるかもしれない。勉強に「遅すぎる」ことはない、ということで。

今日はそれにしても暑いな。きちんと休息が取れればよいのだが。

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