村上春樹『海辺のカフカ』読了
Posted at 06/09/04 PermaLink» Tweet
昨日。とりあえずの日記をアップしたあと、4時ころまでかかって村上春樹『海辺のカフカ』を読了。ある意味スピリチュアルであり、神話の構造を使ったというより神話そのもの的であり、「かえる君、東京を救う」的であり、『ねじまき鳥クロニクル』に匹敵する渾身の大作、という感じだった。「オイディプス王」を根本にすえているので、おそらく欧米の読者にも読みやすい作品なのだろうと思う。帯に「ハーバード・ブックストアで1位」と書いてあるし。
海辺のカフカ (上)新潮社このアイテムの詳細を見る |
とりあえず外出する。ぼおっと『海辺のカフカ』の中の登場人物のことなどを考えながら。一番共感を覚えるのは「大島さん」の存在だな。この人がどういう人かを書くとややネタばれなので遠慮するが、非常に中間的というか境界的というかどこにも属さないという感覚を自分の知性と意志によって平常に保っている姿に自分自身のある種のイデア、あるいはあるべき姿のようなものが投影される。資産家が残したのんびりした私立図書館の司書、なんていう理想的なポジションを得たいものだと思う。もうひとり引かれるのは「ナカタさん」(そして彼と一緒に出てくるホシノさん)だが、この人の描き方にはいろいろと論議があるだろうと思う。ただわたしはこういう人が好きだ。実際には存在し得ない人間だと思うけど。非インテリ階級の話がある節度を持った上品さ(あるいは抑制された下品さ)を持って語られるというのは、読んでいて気楽でいい。そういうところが非現実的だと思うのだが、まあその辺のところは「幸福は寓話であり、不幸とは物語である」ということでいいのだと、ま、仮に断言しておきたい。
地元の書店で『Pen』の特集が面白そうだと思い、どこかで買うことにする。地下鉄に乗って銀座に出、カンテッリ指揮のモーツァルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』の輸入版を買う。録音はずいぶん古いが値段が手ごろだったから。やはりこれも、『デジタルに撮り直したアナログ」の音で、いまいち魅力的じゃないな。古いレコードは古いレコードで聞くべきなのだと思うし、CDではデジタル録音のものを聞いたほうがいいと思う。
Mozart: Cosi fan tutteWolfgang Amadeus Mozart, Guido Cantelli, La Scala Theater Orchestra & Chorus, Elisabeth Schwarzkopf, Franco Calabrese, Graziella Sciutti, Luigi Alva, Nan Merriman, Rolando PaneraiOpera d`Oroこのアイテムの詳細を見る |
そのあとヨシノヤのディスプレイを見、教文館をのぞき、中央通りの歩行者天国を一丁目の方へ。変な街頭音楽家がいた。京橋から日本橋に歩き、丸善で『Pen』を買う。秋冬の新クラッシックスタイルをプラハロケで特集というものだが、この雑誌、一体どのくらいの年代のどういう層を狙ったものなんだろう。これと同じものはさすがにわたしの年代では着られないなと思う。参考になるのはもちろんあるけど。美少年ばかり使うのはモデルだから当たり前だが、クラッシックだからといってちょっと構えすぎなんじゃないかという気もする。まあ写真は綺麗だからいいのだが。プレッセに歩き、食糧を少々買い込んで帰宅。
夜はウェブサイトをいじったり塩野七生『ローマ人の物語』26巻を読んだりして就寝。朝起きてから少し読んで読了した。ウェブサイトいじりは、最近はブログばかり書いていたので結構久しぶりだったのだが、充実感がやはりブログとは違うものがある。デザイン的には昔ほど凝ったことをやる気にならなくていまいちではあるが、自分にすべてが委ねられているという爽快感がブログとは違う。しかし世の中ではブログが相当優遇されているので、わたしのような弱小運営者がそれに乗らない法はない。流れを読み、流れに乗りつつ、流れに飲み込まれないように、といったところか。
『海辺のカフカ』を読みながらページの隅を折って印象に残ったところをマークしておいた。これは文庫本(と新書本)にしかやらないようにしているが、まあそのせいで文庫本を良く買うことになるんだよなと思う。朝起きてから思い立って印象に残るフレーズをテキストファイルに打ち出していく。上下合わせて今のところ7つの文章を打ったが、そのうち6つが「大島さん」のコメントだ。改めて読んでみると、大島さんは主人公の少年に状況の説明(あるはその解釈)をしているのだが、それは物語り構造全体の説明であることに気がつく。つまり大島さんが少年に語るような顔をして、作者が読者にこの話はこういう話だと説明しているのだが、わたしは基本的にはそういうメタフィジカルな読み方よりも村上が持って行こうとしている物語自体への惑溺に魅かれるので、読んでいるときは気にも留めなかった、というより気がつかなかった。しかし、これは自分が何かを書くときには使える手法だと思った。あるいはそれがどのくらいうまく使えるかが小説を書く人間の腕前なのかもしれない。
先ほど書いた「大島さん」や「ナカタさん」は「普通の人」ではない。彼らのキャラクターはメタファーであり、より大きな物語、あるいは神話的構造に入っていくための入り口に過ぎない。神話には語られるパターンがあり、その中での役どころというのはだいたい決まっている。この小説はある種のビルドゥングス・ロマンであるから成長を描かれる対象はやはり少年であることが自然だ。だいたい、私自身が世界に対してそういう把握のしかたをする人間なので、そういうことがきわめて自然に感じられるのだろう。
私が感じたのは、私のように感じ考える人間がわたしだけではない、という大きな安堵感であったことは書いておきたいと思う。村上の読者の多くは、私自身とは違う部分においてであろうとは思うが、そういうように感じる人は多いのではないかという気がする。わたしは以前戯曲を書いたときに「人類なんて滅んだってかまわない。僕はあなたといたいだけなんだ」という台詞を書いたことがあるが、『海辺のカフカ』作中のもっとも大事な台詞が以下のようなものであったことと重なる。
「私があなたに求めていることはたったひとつ」と佐伯さんは言う。そして顔を上げ、僕の目をまっすぐに見る。「あなたに私のことを覚えていてほしいの。あなたさえ私のことを覚えていてくれれば、ほかのすべての人に忘れられたってかまわない。」
これほど深い愛の告白があるものだろうかと思う。ほかのすべてに人に忘れられても、ただひとりの「あなた」に覚えていてもらえれば、それでいい。そういえる思いの深さが、自分の中でどんなにこだましたことか、わからない。たましいの深いところに何があるか、知っていなければ書けない言葉なのだと思う。
父は滅び、母は死ぬ。そして子どもは生き、成長する。そのとき伝えられるのはたった一つの言葉。弔うとか偲ぶとかいうと私の言いたいことと違う意味が着きすぎるが、要するにそういう行為の本当の本質は、この言葉に凝縮されているのだと思う。
飛躍だと思われるだろうし、おそらく村上は嫌な顔をするだろうが、靖国神社というのは要するにそういう存在なのだと私は思う。ただひとりの誰かに、覚えていてほしい。そう言って散った若者たちがあったこと。靖国の巨大な鉄の第一の鳥居をぺしぺしと叩いて、「○○君、また来たよ」というおばさん。ただひとりの誰か、というと「T.S.エリオットのいう<うつろな人間たち>」はすぐに「天皇」、と思うだろうが、それは天皇陛下であってもそうでなくてもいい。ただ、昭和天皇という人は、そういう思いをご自身なりに受け止めていた人だろうとは思うし、だからこそ尊崇され、現在もなおさまざまな形で影響力を持っておられるのだろうとは思う。私自身の感じ方とその影響の仕方は少しずれてはいるのだが。
ま、そういう村上と私自身との相違点とも重なるが、「父」という存在はこの小説の中では「滅びるべき邪悪なもの」を担って描かれている。まあ大概の村上の小説ではそういうものとして「古い日本」は描かれているのでこりゃまあまたかという感じではあるのだが。ただ、資産家の私立図書館が「古きよき思い出」を担うものとして描かれているように、すべて古いものが滅びるべきというわけでもない。新しいものなら何でもいいかというと、典型的なフェミニストが「T.S.エリオットのいう<うつろな人間たち>」として糾弾されていて、まこれはあまりにステロタイプではあるのだが、これも物語の展開の肉付けに使われているので私などはまあそりゃそれでいいかとは思うくらいではある。
だいたいこの小説は全体にリアリティに欠けているところがあって、「神は細部に宿る」ということばのまったく逆であり、細部を見ていくとリアリティに欠けるところがたくさん出てくる。戦時中の女教師の告白の手紙なども、この時代の人ならこういうふうには考えないしこういう書き方をしないと思う部分が、この時代の文書に触れる機会がそれなりにある私自身にはしてしまう。
要するにこの小説は全体として寓話であり、メタファーであり、神話なのだ。その中で「父」が「滅びるべき邪悪なもの」を担い、「息子」が象徴的な形で、あるいは寓話の中の象徴的な登場人物の力を借りて「父」を倒し、「古い悪」を消滅させるというある種の「願い」は、村上の小説の中にはしょっちゅう出てくる。それが多分村上が村上たるところで、そこは私が好きじゃないといっても仕方のないところだ。
私ならおそらく、「T.S.エリオットのいう<うつろな人間たち>」のほうの糾弾が中心になると思うのだけど、ただこれだけでは安定性を欠くということは私自身うすうすは思っていた。「滅びるべき邪悪なもの」を担った「父」なる存在とのある種の対比性の中から彼らの「うつろさ」が浮かび上がってくる点もある。私が書くならば、彼らを照射する逆方向からの「負の光」のようなものをもうひとつ見つけ出さないといけないかもしれないと思う。
今日は良く晴れているが、今のところは涼しい。
ランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いします。
人気blogランキングへ
『読書三昧』もよろしくね。
カテゴリ
- Bookstore Review (17)
- からだ (237)
- ご報告 (2)
- アニメーション (211)
- アンジェラ・アキ (15)
- アート (431)
- イベント (7)
- コミュニケーション (2)
- テレビ番組など (70)
- ネット、ウェブ (139)
- ファッション (55)
- マンガ (840)
- 創作ノート (669)
- 大人 (53)
- 女性 (23)
- 小説習作 (4)
- 少年 (29)
- 散歩・街歩き (297)
- 文学 (262)
- 映画 (105)
- 時事・国内 (365)
- 時事・海外 (218)
- 歴史諸々 (254)
- 民話・神話・伝説 (31)
- 生け花 (27)
- 男性 (32)
- 私の考えていること (1052)
- 舞台・ステージ (54)
- 詩 (82)
- 読みたい言葉、書きたい言葉 (6)
- 読書ノート (1582)
- 野球 (36)
- 雑記 (2225)
- 音楽 (205)
月別アーカイブ
- 2023年09月 (19)
- 2023年08月 (31)
- 2023年07月 (32)
- 2023年06月 (31)
- 2023年05月 (31)
- 2023年04月 (29)
- 2023年03月 (30)
- 2023年02月 (28)
- 2023年01月 (31)
- 2022年12月 (32)
- 2022年11月 (30)
- 2022年10月 (32)
- 2022年09月 (31)
- 2022年08月 (32)
- 2022年07月 (31)
- 2022年06月 (30)
- 2022年05月 (31)
- 2022年04月 (31)
- 2022年03月 (31)
- 2022年02月 (27)
- 2022年01月 (30)
- 2021年12月 (30)
- 2021年11月 (29)
- 2021年10月 (15)
- 2021年09月 (12)
- 2021年08月 (9)
- 2021年07月 (18)
- 2021年06月 (18)
- 2021年05月 (20)
- 2021年04月 (16)
- 2021年03月 (25)
- 2021年02月 (24)
- 2021年01月 (23)
- 2020年12月 (20)
- 2020年11月 (12)
- 2020年10月 (13)
- 2020年09月 (17)
- 2020年08月 (15)
- 2020年07月 (27)
- 2020年06月 (31)
- 2020年05月 (22)
- 2020年03月 (4)
- 2020年02月 (1)
- 2020年01月 (1)
- 2019年12月 (3)
- 2019年11月 (24)
- 2019年10月 (28)
- 2019年09月 (24)
- 2019年08月 (17)
- 2019年07月 (18)
- 2019年06月 (27)
- 2019年05月 (32)
- 2019年04月 (33)
- 2019年03月 (32)
- 2019年02月 (29)
- 2019年01月 (18)
- 2018年12月 (12)
- 2018年11月 (13)
- 2018年10月 (13)
- 2018年07月 (27)
- 2018年06月 (8)
- 2018年05月 (12)
- 2018年04月 (7)
- 2018年03月 (3)
- 2018年02月 (6)
- 2018年01月 (12)
- 2017年12月 (26)
- 2017年11月 (1)
- 2017年10月 (5)
- 2017年09月 (14)
- 2017年08月 (9)
- 2017年07月 (6)
- 2017年06月 (15)
- 2017年05月 (12)
- 2017年04月 (10)
- 2017年03月 (2)
- 2017年01月 (3)
- 2016年12月 (2)
- 2016年11月 (1)
- 2016年08月 (9)
- 2016年07月 (25)
- 2016年06月 (17)
- 2016年04月 (4)
- 2016年03月 (2)
- 2016年02月 (5)
- 2016年01月 (2)
- 2015年10月 (1)
- 2015年08月 (1)
- 2015年06月 (3)
- 2015年05月 (2)
- 2015年04月 (2)
- 2015年03月 (5)
- 2014年12月 (5)
- 2014年11月 (1)
- 2014年10月 (1)
- 2014年09月 (6)
- 2014年08月 (2)
- 2014年07月 (9)
- 2014年06月 (3)
- 2014年05月 (11)
- 2014年04月 (12)
- 2014年03月 (34)
- 2014年02月 (35)
- 2014年01月 (36)
- 2013年12月 (28)
- 2013年11月 (25)
- 2013年10月 (28)
- 2013年09月 (23)
- 2013年08月 (21)
- 2013年07月 (29)
- 2013年06月 (18)
- 2013年05月 (10)
- 2013年04月 (16)
- 2013年03月 (21)
- 2013年02月 (21)
- 2013年01月 (21)
- 2012年12月 (17)
- 2012年11月 (21)
- 2012年10月 (23)
- 2012年09月 (16)
- 2012年08月 (26)
- 2012年07月 (26)
- 2012年06月 (19)
- 2012年05月 (13)
- 2012年04月 (19)
- 2012年03月 (28)
- 2012年02月 (25)
- 2012年01月 (21)
- 2011年12月 (31)
- 2011年11月 (28)
- 2011年10月 (29)
- 2011年09月 (25)
- 2011年08月 (30)
- 2011年07月 (31)
- 2011年06月 (29)
- 2011年05月 (32)
- 2011年04月 (27)
- 2011年03月 (22)
- 2011年02月 (25)
- 2011年01月 (32)
- 2010年12月 (33)
- 2010年11月 (29)
- 2010年10月 (30)
- 2010年09月 (30)
- 2010年08月 (28)
- 2010年07月 (24)
- 2010年06月 (26)
- 2010年05月 (30)
- 2010年04月 (30)
- 2010年03月 (30)
- 2010年02月 (29)
- 2010年01月 (30)
- 2009年12月 (27)
- 2009年11月 (28)
- 2009年10月 (31)
- 2009年09月 (31)
- 2009年08月 (31)
- 2009年07月 (28)
- 2009年06月 (28)
- 2009年05月 (32)
- 2009年04月 (28)
- 2009年03月 (31)
- 2009年02月 (28)
- 2009年01月 (32)
- 2008年12月 (31)
- 2008年11月 (29)
- 2008年10月 (30)
- 2008年09月 (31)
- 2008年08月 (27)
- 2008年07月 (33)
- 2008年06月 (30)
- 2008年05月 (32)
- 2008年04月 (29)
- 2008年03月 (30)
- 2008年02月 (26)
- 2008年01月 (24)
- 2007年12月 (23)
- 2007年11月 (25)
- 2007年10月 (30)
- 2007年09月 (35)
- 2007年08月 (37)
- 2007年07月 (42)
- 2007年06月 (36)
- 2007年05月 (45)
- 2007年04月 (40)
- 2007年03月 (41)
- 2007年02月 (37)
- 2007年01月 (32)
- 2006年12月 (43)
- 2006年11月 (36)
- 2006年10月 (43)
- 2006年09月 (42)
- 2006年08月 (32)
- 2006年07月 (40)
- 2006年06月 (43)
- 2006年05月 (30)
- 2006年04月 (32)
- 2006年03月 (40)
- 2006年02月 (33)
- 2006年01月 (40)
- 2005年12月 (37)
- 2005年11月 (40)
- 2005年10月 (34)
- 2005年09月 (39)
- 2005年08月 (46)
- 2005年07月 (49)
- 2005年06月 (21)
フィード
Powered by Movable Type
Template by MTテンプレートDB
Supported by Movable Type入門