日本的無神論/こうの史代「こっこさん」/塩野七生「賢帝の世紀」

Posted at 06/08/28

無神論の起源は敗戦にあるのだと思う。敗戦とそれに伴う混乱は、多くの日本人に「神も仏もあるものか」という感想を持たせた。昭和天皇の人間宣言もそれに拍車をかけた。言葉をかえて言えばこの時代の日本的無神論は「アプレゲール的無神論」といってよいと思う。

それが様相が変わってきたのがわれわれの世代、すなわち1960年前後に生まれたいわゆる「新人類」と呼ばれる世代以降であると思う。アプレゲール的な無神論は、神、ないし天皇の神性が失われたところをどことなく引きずっているところがある。そこにルサンチマンがあるのだが、新人類的な無神論はもっと根本的というか、ドライなもので、三無主義(無気力・無責任・無関心)とか四無主義(+無感動)とかいう言葉に代表される、虚無主義的な無神論である。おそらくはアプレゲール的な無神論のいさぎよくないところに対する反発心がそのような形で神的なものの全否定につながっているのだと思う。われわれの世代がニューアカデミズムの隆盛と重なるのは理由のないことではないと思う。

そういうわれわれの世代が40代、いわば社会の責任世代に入ってきたということで、実質的な無神論の蔓延はかなり本格的な段階に入っているといえる。われわれの世代の無神論はアプレゲール的なルサンチマンとは無縁である一方、科学主義的なアメリカ的無神論とは近く、村上ファンド的資本主義とつながりが深い一方で、オウム的な洗脳宗教とも親近性がある。それは共産主義(つまり「科学的無神論」)崩壊後のロシアでオウムが流行したこととも関連性があるだろう。社会のさまざまなところで無神論的な秩序崩壊が起こっている根本にはそういう虚無性があることと無縁ではなかろう。

もちろん無神論自体は敗戦以前にも個々のケースとして存在してはいたが、無神論が公然と表に出て主張できるようになったのは戦後ではないかと思う。旧制高校的な教養主義には超越者への憧れのようなものがあるし、ある傾向の無神論として存在し得たのはマルクス主義者だと思うが、鍋山貞親が「転向」後にかなり強力な天皇主義者になったように、マルクス主義者の無神論にはそういう神感覚への抑圧のようなものが感じられる。

しかし敗戦後、あるいは現代に無神論が蔓延する影には日本の歴史的な背景と言うものもある。多くの国家で『政教分離』が宗教の政治への影響力を排除する、という意味があるのに対し、日本では国家による宗教への関与を排除する、というふうに考えられがちなのは、日本においては政治の宗教に対する優位の歴史が長いということの反映である。

具体的にいえば、16世紀に織田信長が比叡山焼き討ちや一向一揆の撲滅などを行い仏教勢力を政治的に無力化し、豊臣秀吉や徳川政権がキリシタンの撲滅を行って彼岸的な宗教勢力が政治に関与することの徹底排除に成功した。秀吉も家康も自らの権力の荘厳化は神道(神祇と言うべきか)によって行った。豊国大明神や東照大権現などがそれだが、いずれも現世的権力の来世への敷衍とも言うべき祭祀である。

明治維新の思想的原動力はいうまでもなく国学だが、これは儒学的な意味での「学」であって宗教ではない。もちろん宗教的側面はないわけではないが、政治の宗教への侵食という形で成立した宗教自体の超越性が確保された信仰ではないことはいうまでもない。いずれにしても、日本の近世以降の宗教の超越性の弱さと穏健性とはそれが日本社会の強みでもあり弱みでもあったのだと思う。

そうした背景があったからこそ戦後公式的な皇室崇拝の現実的な基盤が崩れるとぽろぽろと崩れていくように無神論を唱える人たちが増えていったのもそうふしぎなこととはいえない。

しかし、もともと日本には超越的な信仰よりもむしろ多神論的・アニミズム的な「神」観のほうが強かったのだと思うし(この当たりいかにも勉強不足の記述だが)、近世初頭の宗教勢力の崩壊により政治の宗教に対する優位の基盤の上にそうした「神」観が蘇り、現世優位の価値観の中で現世利益的な民間信仰が繁栄したといえるのではないか。

そういう鳥瞰を得て考えると、現在の無神論の広がりもその方が現世的な利益がある(と当人たちは思っている)からだと考えればそうふしぎなものというわけでもないことになる。

無神論の広がりはもちろん現代の世界的な現象(特に白人プロテスタント社会と東アジアに顕著だ)であると思うが、歴史的・文化的基盤はそれぞれに異なると考えるべきだろう。事例研究も集めなければと思うし、この問題には取り組んでいかなければいけないと思う。

***

昨日。ここ二三日、東京は曇っていて過ごしやすい。ようやく東京も秋の気配が出てきたということだろう。晴れたら暑いのはわかっているが、真夏なら曇っていたら暑くないとは限らない。

しかし習慣上出かけるのは夕方になった。久しぶりに新御茶ノ水で降りて神保町まで歩く。通りの様子が少し変わった気がする。ブックマートに寄り、こうの史代『こっこさん』(宙出版、2005)を買う。それにしても聞いたことのない出版社からよく出しているな。まだ読みかけだが、品のいいギャグ漫画の王道と言うか、才能をぺろっと出すだけでこれだけ面白いものが書けるというのは凄いことだと思う。

こっこさん

宙出版

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三省堂に行く。検索の機械で「無神論」で検索してみても、日本的無神論を分析したものはない。キリスト教社会における無神論の問題ばかりで、要するに日本社会においては無神論が問題化されたことはほとんどないということなのだろうと思う。しかしまあ研究の基礎にはなるだろうからと思いアンリ・アルヴォン『無神論』(白水社クセジュ文庫、1970)を購入。

無神論

白水社

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それから、やはり長編作家としての村上春樹の現在を知っておく必要があるということから読まなくてはと思いつつ読んでいなかった『海辺のカフカ』上下巻(新潮文庫、2005)を購入。ここ二三日でずいぶん本を買ってしまったのでいつ読めるのかよくわからないが、手元にあれば読むだろうという感じだ。

海辺のカフカ (上)

新潮社

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これだけ買ってしまうともう本屋めぐりをすると後難が恐いので帰ることにする。財布もお守りのように樋口一葉が残っているだけ。恐い恐い。

三島由紀夫『金閣寺』は寺を出奔したところ。おみくじで旅行は凶、を引き特に西北が凶と出て西北に向かって旅を決意するところなどは実に三島っぽいがよくわかる気がする。老師とのエピソードはあまり心に響いては来なかった。

金閣寺

新潮社

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塩野七生『賢帝の世紀』はトライアヌス帝の第一次ダキア遠征が終わったところまで。一次史料が残っていないので「トライアヌス円柱」に刻まれたレリーフを描写するという手法を取っているが、さすがに読みにくい。こういうところはもっと「文学的」に描写してもらった方がいいのだが、塩野はそういう面ではこの作品においては禁欲的で、トライアヌス円柱がどういうものかはわかるのだが、「読者」としては歴史家の苦労を強制的に偲ばされている感じがしなくもない。

ローマ人の物語 24 (24)

新潮社

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そしてなかなかトライアヌスの「個性」というのが浮かび上がってこない。もちろんこれは、カエサルやアウグストゥスなど強烈な個性がそこここに見られるローマにおいて、個性という点ではトライアヌスは残念ながらあまりはっきりしてこない人物だということなのかもしれない。有能な司令官であり政治家、ということはわかるのだがそれ以上でもそれ以下でもない感じが、今のところはしている。そういう政治家の時代のほうが、人々は幸福だということなのかもしれないが。鼓腹撃壌というか。


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