歯槽膿漏/小説を読まなかった理由/三島由紀夫『金閣寺』/靖国の夕陽

Posted at 06/08/25

昨日。こちらの方のご忠告をいただき、歯科医で診察を受ける。歯槽膿漏が少し進んでいて、その影響である可能性が大きいとのこと。言われてみたら最近噛み合わせも今ひとつだったし硬いものをあまり好まなくなっていたので、無意識のうちに自覚していたことに思い当たる。腫れが出て、ご忠告をいただいて初めて受診する気になるようでは口中のケアが足りないなと反省する。そうさん、ありがとうございました。

それにしても虫歯に比べ、歯槽膿漏というのはどうも現実感がないというか、危機感があまりわかない。虫歯は子どものころにいろいろな目に遭った記憶があるので切実感があるのだが、歯槽膿漏も放っておくと大変なことになるということはわかっていてもなんとなく無防備になってしまう。ちょっと気をつけて歯磨きと定期的な歯石除去をしないといけないなと反省した。

受診した歯科医が図書館に近いので、帰りに寄ってクッツェー『少年時代』(みすず書房、1999)と小田切進編『日本近代文学年表』(小学館、1993)を借りる。クッツェーの方は小説なのか自伝なのかよくわからないが、なかなか読ませる感じ。まだ読み始めたばかりだが。

『年表』のほうは仕事の参考資料という感じ。ただ年表を読んでいるだけでその時代の雰囲気がよくわかる気がする。私は大学に入学した頃なぜあまり現代文学を読まなかったのだろうと思っていたのだが、どうもあまりいいのが、というか自分が読みたいと思うのがなかったのだなということが改めてわかった。1981年のところにはたとえば青島幸男『人間万事塞翁が丙午』だとか井上ひさし『吉里吉里人』、大江健三郎『「雨の木」を聴く女たち』、堀田あけみ『1980アイコ16歳』などがあるがどうも読みたいという触手が動くものがない。わずかに戯曲でつかこうへい『蒲田行進曲』があり、これは読んだというより観劇した。そのように考えてみると、私は主体的に演劇を選択したと思っていたけれども、つまりは1980年代初頭は小説より演劇の方に勢いがあり、自分はそれにひかれたのかもしれないという気がしてきた。私も思ったより「時代の子」なんだな。基本的にはミーハーでもあるしなあ。

三島由紀夫『金閣寺』を読み進める。今、主人公が大谷大学に入り、柏木という男に出会ったあたり。陽の象徴である友人鶴川と陰的な柏木の対比というのは図式的ではあるが面白いと思う。現実問題として、二人の方向性の異なる友人の、どちらにつくかというようなことはよくあったことだ。そしてその選択はいつも正しいとは限らない。しかしなにかひかれるもののあるほうに近づいてしまうのだが、その動機が自分の中の暗い何かだったりすると、結構厄介である。三島の書くことは観念的で自意識的なのだが、私自身の中の観念や自意識と符合することが多いらしく、変に思い入れをしてにっちもさっちも行かなくなって読み進められなくなってしまうことがある。この作品は今のところそういうことはないが。

なんとなくふと、靖国神社が懐かしくなった。売店の店頭でなぜか三線を弾いて歌を歌っている小父さん。蝉時雨。大村益次郎銅像の頭に止まった鳩。石畳。神保町から夕日の方角に見える、浄土に続くみちを示すかのように見える大きな鳥居。桜の季節。数々の連隊の戦友会が植えたおびただしい桜の木。散る桜の中で、「きれいだな、きれいだな」とはしゃぎながらぴょんぴょん跳ねて、ぐるぐる回っていた白いワンピースの女の子。靖国神社にはなにか記憶のどこかに置き忘れたような大切なものがある。それを…

いや、やめよう。大切なことは、より多くの人が靖国神社に触れることによってそうした大切なものを思い出したり気づいたりすることにあるのだと思う。それを捨て去ろうとか縁を切ろう、あるいは最初から縁を持たないと決めている人に呼びかけてもあまり意味のないことかもしれない。むしろ無言で提示して、それを感得してもらうことが大切なのだろう。最終的にはfeel it in one's bones、その人の「骨」で感じてもらうしかないことなのだし。

三島由紀夫が金閣寺に憧れるように靖国神社を懐かしく思う、というわけではないが、より多くの日本人が靖国神社に参拝して、その何かに触れてもらうことを願わずにはいられない。

あの靖国の、夕陽。

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by Luke Peterson

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