多様性とピュアリズム/イスラエルとヒズボラ/伊賀と伊勢

Posted at 06/08/11

今日も天気がいい。暑くなりそうだ。

昨日は新しい原稿に取り掛かる。わりあい自然に筆が動いているが、やはりところどころで考え込む。考えなければもちろん書く意味はないので考えるのはいいのだが、表現の仕方が幾らでもあることを書いているだけに書き方に迷うところが多い。それも「書く」ということの醍醐味の一つ。いろいろ考えながら書いてみたい。やはり書けば書くほどある意味余裕のようなものも出てくるし、肩の力も抜けてくる。文の選択の幅もひろがるし、やはりどんどん書かなくてはと思う。

歴史の方は昭和初期(5・15以前)について考えたが、大正時代に比べると少し勢いが下がっている感じは確かにする。なんというか、昭和になると「多様性」が失われる感じがするんだよな。特にこの時代に大きいのは左からの全体主義思想、つまり日本共産党の影響力だ。そしてもちろん満州事変以降は軍部の発言力も強まる。そして血盟団事件。右からのピュアリズム。やはり5・15、すなわち政党内閣の終焉で一つの時代を区切るのが妥当だなと思う。

昨日は仕事はまあまあの忙しさ。冷房がよく効いていて寒いので、昨日はカーディガンを羽織ることにした。どうも私は冷房は苦手だ。

SAPIOとビックコミックの新しい号が出ていたので買う。靖国「問題」をめぐり、小林よしのりとほぼ同じ考えであることが判明。まあ多分論理的に考えてそういうだろうなとは思っていたが。「左翼による昭和天皇の私的発言の政治利用に対する批判」はもっとなされるべきだ。

佐藤優がイスラエルとヒズボラの対立でイスラエルを全面的に支持すべきと言う意見を出していて、まあそれなりの説得力はあるなと思った。今回の戦闘がヒズボラの「拉致」によって始まったこと、北朝鮮のミサイル技術がイランに流れ、それがヒズボラに回っているという構造を考えればイスラエルの側に立つのがモラル的にも正しいということなのだが、なかなかそれは難しいな。イスラムとユダヤと、どちらの側に立つべきという明確な基準が日本にあるわけではない。石油の供給を考えればイスラム、アメリカとの関係を考えればユダヤ、ということになってしまうが、ことはそんな単純な二項対立ではない。

結局イスラエルというシオニズム国家の存在をどう考えるかということになって行き、現地のアラブ人を追い出して成立したイスラエル国家を倫理的に支持する思想はなかなか日本では用意できないだろう。だからといって現に存在する近代国家でありアメリカの支持とユダヤ人ネットワークを通して強大な発言力を有するイスラエルの存在を根底から否定することも現実的でないばかりか欧米の贖罪意識によって倫理的に強いサポートを受けていることを考えると倫理的にも危ない。

おそらくこの問題に関しては、日本でももっと根本的に考察が深められるべきなのだと思う。しかしそれを考えるためには日本の規範というものは弱いと痛感せざるを得ないが。

今日から伊賀・伊勢地方に旅行。中学の同級会に出席し、神宮を参拝してくる予定。よって13日夜までは更新できないと思います。皆様も良い週末を。


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