フレーバーティー/あんぽんたんとくるまばかり/戦後日本の建国の父

Posted at 06/08/02

夏なのかな、と思うほど涼しいのだが。

昨日帰郷した。日中の電車のせいか、特急の中は夏休みの子ども連れが多い。冷房も少し利かせすぎだろう。車内ではカーディガンを羽織り、下車してからは半袖だった。仕事中ににわか雨。それでもだいぶ気温が下がったと思う。夜は夏掛けだと少し寒い。今も長袖のポロシャツを着ている。

最近集中してものを考える時間が長いせいか、胃に負担がかかっているような気がする。コーヒーがあまり飲めない。煎茶や紅茶でもきつく感じることがある。その代わりなぜか、フレーバーティーが美味しい。以前はあの香りがダメで飲む気にならなかったのだが、最近では逆にあの香りがいいような気がしてきた。人の好みというのはかわるものだと思う。

子どものころ、一時的にものすごく蕗の煮物が好きなときがあり、そればかり食べていたが、あるとき急に嫌な感じがして、それ以来食べられなくなってしまったことがあった。今では食べられるけれども、食べる前に心の中にちょっと身構えるところがある。なんか不思議だ。人間関係でもそういうところというのはあるよなと思うけど。

車中では『金子光晴詩集』を読んだり『南原繁』を読んだり。金子の「若葉のうた」は読んでいて泣きそうになった。

金子光晴詩集

白凰社

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  小さなあくびと 小さなくさめ
  それに小さなしゃっくりもする

  君が 年ごろといわれる頃には
  も少しいい日本だったらいいが

  なにしろいまの日本といったら
  あんぽんたんとくるまばかりだ

  しょうひちりきで泣きわめいて
  それから 小さなおならもする

この反逆の詩人が、どうしてこう無心の言葉を書けるのかと慟哭に似た感情を感じるくらいだ。社会批判のようなところでさえ、「あんぽんたんとくるまばかりだ」というこの並列。すぐさま「笙、篳篥」と華麗な言葉が続き、「小さなおなら」のかわいらしさを引き出す。自然で華麗な技巧。あるいは技巧的で華麗な自然。漂泊の詩人のたどり着いた場所。

現代詩の詩人と言うのは肉体が感じられない人が多いのだが、金子光晴の言葉には生々しい肉体があって、それが金子のリアリティの根源なのだと思う。

加藤節『南原繁』(岩波新書、1997)読了。南原と言う人は、いわば政治思想的巨人という感じがする。戦後民主主義のファウンディングファーザー、というようなことを立花隆が書いていたが、なるほどなあ、と思う。南原の著作自体を読んだわけではないのであまり正確なことはいえないかもしれないのだが、丸山真男ら大正―昭和初期に学生時代を送った人々と違う、明治人の骨太さを感じた。それだけに著者の加藤も南原の人間的魅力は認めながらその思想を家父長的・民族実在論的と批判し、その部分を受け継ごうという意思は皆無である。直系の人々からそういう扱いを受けていたのでは、南原の著作は戦後思想の中で屹立しながらもあまり読まれることもなく埋もれていき、その戦後民主主義用語の言説だけが重宝な貨幣として流通するというある種の悲惨な状態に置かれているような気がする。

南原繁―近代日本と知識人

岩波書店

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南原は現行憲法を議論する際に貴族院議員であって、第一条の国民主権条項や第九条の戦争放棄条項には必ずしも賛成しなかった、というところに明治人の健全な常識を感じる。ただ、一度決まった以上はそれを遵守するという点において、筋を通し規範を重視する姿勢が強かったため、その言説が「戦後民主主義」的に解釈されたのだろう。つまり、南原の姿勢や言説は戦後民主主義の内部から立ち上がるものではなく、もっと違う場所からの戦後民主主義擁護なのである。カントやフィヒテの研究から立ち上がる彼自身の思想から、戦後憲法体制を擁護するのが彼のスタンスであって、彼にとって戦後民主主義というのは掌中の雛鳥のようなものだったのだろう。残念ながらその雛鳥は、いまだに雛鳥である気がする。私などは、戦後民主主義それ自身の中には思想的バックボーンがあるとは思えない。民主主義というのは体制であって思想それ自身ではない。

ただ憲法を制定した第一次吉田内閣の姿勢というのはとにかくGHQの要求を入れることで早急に占領状態を脱するという場当たり的な姿勢がなかったとはいえないだろう。その場しのぎで制定された憲法その他にそんなに縛られるつもりもなかったのではないかという気もする。いわゆる逆コース、再軍備というのは逆の面から見れば「正常化」、それも中途半端な正常化であっただろう。

南原の改革で結果的に最大の問題として禍根を残したのが教育改革だったと思われる。この本によると教育改革は米側でなく日本側主導で行われたように書いてあるが、教育基本法や学校教育法にはやはりいろいろ問題があると思うし、そういう意味ではこのあたりのところはもう少し調べて考えてみなければならないと思った。国民主権でなく君民同治を主張した南原が、公選制教育委員会制度など、日本の実情からすると少し無理なのではないかと感じられるような改革を主導したというのも少し奇異な感じがする。

現代の学校教育制度は改善の余地がありすぎて破裂しそうだが、制度の中で生きている人、つまり利害関係者があまりに膨大で(考えようによっては国民全体だ)改革の動き自体が不全化してしまう傾向にある。教育問題も複雑にありすぎて、どこから手をつけていいのかわからないというのが実情だろう。また教育にはさまざまなイデオロギーが介入しやすく、いろいろなイデオロギーの草刈り場、初期洗脳の場になっている場合も多い。健全な日本国民としての規範を一致して求められない現状がそうした混乱を招いているのだろう。

南原には逆に確固とした規範があったが、現実世界の中で揺れ動く政治や社会、思想に対応して生き残れるような強靭な制度というものを作り上げるのにはあまり成功していないような気もする。考えさせられることは多いが、「戦後」を考える上で南原が重要なポジションを占めているということだけはよく理解出来た。


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