本を買い捲る/金子光晴とかメッテルニヒとか/20年前に自分が書いたことを読んで赤面する

Posted at 06/08/01

昨日は考えを整理するために散歩しながら神保町にも出かけ、古本屋や本屋を物色。そうすると、どうも新しいものを吸収するスイッチが入っていたらしく、本を5冊も買ってしまった。

一つ目は中島可一郎編『金子光晴詩集』(白凰社、1968)。立ち読みして「鮫」という作品をぱらぱら読み、一も二もなく購入。いわゆる現代詩で、これだけ魅かれることは珍しい。

金子光晴詩集

白凰社

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「さくら」という作品を一部引用してみよう。

  おしろいくづれ、
  紅のよごれの
  うす花桜。

  酔はされたんだよう。
  これもみすぎ世すぎさ。

  あそばれたままの、しどけなさ。
  雨にうたれ、色も褪めて、
  汗あぶら、よごれたままでよこたはる
  雲よりもおほきな身の疲憊(つかれ)よ。

  (中略)

  戦争がはじまつてから男たちは、放蕩ものが生まれかはつたやうに戻つてきた。
  敷島のやまとごころへ。

  あの弱々しい女たちは、軍神の母、銃後の妻。

  日本はさくらのまつ盛り。

  (中略)

  さくらよ。
  だまされるな。
  あすのたくはへなしといふ
  さくらよ。
  世の俗説にのせられて
  烈女節婦となるなかれ。

  ちり際よしとおだてられて、
  女のほこり、女のよろこびを、
  かなぐりすてることなかれ、
  バケツやはしごをもつなかれ。
  きたないもんぺをはくなかれ。

           (昭和19年5月5日)

金子光晴が反逆の詩人といわれるのはもっともだと思う。これはもちろん「敷島のやまとごころ」に対する反発であるが、現代に流通しているさまざまな戦争に関する言説にもからめとられることのない自由さを持っている。

「世の俗説にのせられて/烈女節婦となるなかれ」「女のほこり、女のよろこびを、かなぐりすてることなかれ/バケツやはしごをもつなかれ。/きたないもんぺをはくなかれ。」

なんというか、平時でも精神的に「きたないもんぺ」をはいていたり、さまざまな言説に踊らされて「バケツやはしご」を持っていそうな人々に対する痛烈な皮肉である。いわゆる「反戦」とは次元の違うきらびやかさが、金子の言語世界にはあり、「酔はせられ」てしまう。

二つ目は瀧井孝作『無限抱擁』(新潮文庫、1948)。三茶書房の店の前のラックの200円のコーナーを見て立ち読みしていたらなんとなく魅かれて購入。よく知らないが結構メジャーな人なんじゃないかと思ったら、芥川賞の選考委員とかをしていて講談社文藝文庫などにも入っていた。旧字旧かななので結構雰囲気はあるが読むのは多少めんどくさくはある。私小説的なだらだらした記述がちょっと今読みたいものという感じがする。隣で本を見ていた女性がなんかきれいだった。神保町できれいな人に会うことは珍しいんだが、夏休みだからだろうか。(写真は講談社文藝文庫のもの)

無限抱擁

講談社

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三つ目から五つ目は東京堂ふくろう店のお買い得コーナーで購入。三つとも、アマゾンのマーケットプレイスより格段に安く、しかも新品。ただ扱いが悪かったのか、表紙の上辺が曲がっていたり(多分、新刊時に店頭に出されたときに一番上に置かれていた本なのだろう)そういう面で難がある。ただ、一冊で3800円もする本も含め合計で3000円程度になったので、つい買ってしまった。

クレメンス・メッテルニヒ著『メッテルニヒの回想録』(恒文社、1994)。店頭で立ち読みしていて、私はこの保守反動の代表、王党派の権化ともいうべき人物が実はとても好きだなあと思えてきた。基本的に非常にクレバーなのだ。記述は1815年までで、つまりは革命とナポレオンの時代なのだが、1848年までのいわゆる反動期の日記や回想録があったらそっちも読んでみたい。まだ立ち読みした程度。

メッテルニヒの回想録

恒文社

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高柳俊一「T.S.エリオットの比較文学的研究』(南窓社、1988)。エリオットについての勉強は頓挫しているが、立ち読みした限りでは非常に刺激的。高柳のエリオット研究本はもう一冊あったのだが、とりあえずこちらだけ買うことにした。(amazonでは扱ってないらしい)

岡倉登志編著『ハンドブック 現代アフリカ』(明石書店、2002)。アフリカを全般的に解説した読みやすいものがないなあと思っていたのでとりあえず購入。

ハンドブック 現代アフリカ

明石書店

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5冊も別々の本を買ったのは久しぶりで、半ば興奮状態でクラインブルーに行く。この店、いつも私以外に客がいたことがないのに、昨日は5、6人いてみんな煙草を吸っていた。やられたと思ったが、マンデリンを飲みつつ収穫を吟味。最近コーヒーを飲みすぎなのか、ちょっと胃に来る感じ。あまり無理しないようにしないと。

中身を確認してちょっと満足し、地下鉄で帰宅。

本を整理している途中で出てきた加藤節『南原繁 近代日本と知識人』(岩波新書、1997)が眼に留まる。この本は読みかけになっていたのだけど、立花隆がこちらのサイトで南原のことをかなり評価しているので、ちょっと読んでおいた方がいいかなと思い読み始める。法学の講義で祝詞をあげたという伝説のある筧克彦(私と同郷なのだが)に影響を受けているというのが興味深かった。何しろこの筧という人物は、清沢冽が『暗黒日記』に書いていたが、ラジオで講話をする前後に「いやーさーかー」と祝詞をあげたという「大東亜戦争時の神がかり」の代表のようにいわれる人物なのだ。それが全面講和を唱えて吉田茂に「曲学阿世の徒」と言わしめたクリスチャン南原に影響しているというのはやはり面白い話だなと思う。それだけこのころの知的世界は奥が深かったというべきなのだろう。今ではそんな影響関係などなかなかないだろうと思う。取り急ぎ書籍購入・読書記録。

南原繁―近代日本と知識人

岩波書店

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やらなければいけないことは山積していて、『南原繁』に「自己がめざす学問」についての記述があるのを読み、いま自分がはっきりと「こういうことを目指している」といえるだろうかと反省する。そういうことを一度しっかり考えないといけないなと思い、そういえばずいぶん昔に一度一生懸命考えて書いたことがあったなと昔書いたものを探して引っ張り出してみる。それは24歳のときのもので、つまりいまからちょうど20年前だ。じっくり読んでみて、書いてあることがあまりにまとまりがなく茫漠としていて、観念的で根拠のない楽観に満ちていたり、もう今では全く忘れてしまっていたプランに取り憑かれていたりして、かなり衝撃的だった。これで24歳か。いま24のヤツがこんなことを考えていたらもっと地に足の付いたことを考えないと将来碌な者にならないぞというだろうなと思う。あれ。

それから考えて自分が20年間で相当変わった部分は、やはり職業経験や結婚経験によるのだなと思った。そのころとあまり変わってない部分もある(世界の多様性を追究したいという気持ち)のだが、現実を知ってものすごく慎重になっている部分は相当ある。ただそう言う昔のものを読み直してみると、ある部分でそういう根拠のない楽観に励まされるところもあった。心のどこかに慎重さを留めておかないといけないと思うが、「まず一歩踏み出す」楽観性のようなものの持つパワーは相当大きい。行動する前に考えすぎてしまう傾向がいまは強いから、行動と思考のバランスのようなものが崩れてしまい、そこで生きる力の発露が妨げられているんだなと思う。20年前は本当に考えなしだったんだなと思う一方で、今からでもやれることはいくらでもあるとずいぶん励まされる部分もあった。


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