人間は本質的に愚かだ/朗読の官能的な悦び
Posted at 06/05/31 PermaLink» Tweet
昨日帰郷。昨夜は仕事が忙しかった。しばらく休暇を取っている人がいて、その代理をやったのだが、仕事量がかなり多い。もう少しやっているうちにもう少し要領がよくなると思うが、段取りのつけ方をもう少しきちんとしなければいけない。
帰郷の特急の中では保坂和志『途方に暮れて、人生論』を読む。フローベールの2冊も持っているのだが、ぼちぼちしか進まない。現代作家の書くものの方が読みやすいことは確かだ。保坂は思想的にも体質的にもたぶん自分とかなり違う作家なのだが、感覚、いや感じ方というか、なんというかわかるところはよく分る。いろいろなものに対する描写の感覚が近いということだろうか。いずれにしても、まだ自分と保坂の共通点も相違点も、どうもうまく見出せない。レシピの分らない複雑な味の構成の料理ということか。分らないまま読むのが多分、文学というものなのだとは思う。
朝6時過ぎに目が覚める。忘れ物があるのに気がつき、散歩をかねて仕事場に取りに行く。クンデラで読んだ「愚行」という言葉が思い浮かぶ。人のやることというのは、賢明にふるまったつもりでいて、愚行ばかりだ。「賢人会議」という言葉が可笑しいのは、そういう人間の愚かさに気づいていないような馬鹿さ加減を感じるからだろう。しかしかといって愚かであることに開き直っても意味はないのは当たり前だ。賢明であるように努力しなければならないのは当然だが、人間は本質的に愚かであることを忘れてはならない、あるいは気がつかなければならない、思い出さなければならないのだ。人間が愚かであることを忘れた文明はヤバイ。自分が愚かであることを失念した人間は、「愚かなるやに劣るらん」である。これはとても前向きなことなのだが、この明るさがこの文章で伝わるかどうか。
帰ってきてFMでミュージックプラザを聞く。現代音楽だ。19世紀初頭はモーツァルトやベートーベンが現代音楽だったわけだが、彼らは演奏家でありまた作曲家でもあり、現代のロックアーチストのようにそれは不可分だっただろう。今のように現代音楽と古典音楽がわかれ、演奏家が古典音楽を演奏するという分離が生じるのは歴史が深まったということなのだろうか。芝居でもそうだ。現代作家の戯曲をその劇団が演じるのとシェイクスピアの戯曲をどこかの劇団が演じるのとでは、意味が違う。
文学はどうだろうか。文学は、現代文学であれ、古典文学であれ、作家が書き、読者が読む、ということに変わりはない。間に演奏家や俳優はいない。産地直送である。中間業者はいない。外国文学であったら間に翻訳というある種の演出が加わるが、それはとりあえず考えなければ、文学というのはダイレクトな関係だということが言える。
しかしたとえば、朗読と言うものを考えれば、作家と読み手(聞き手)の間に一人の人間、朗読者が介在することになる。これはどのくらいの官能を伴うものだろうか。以前はラジオで、朗読の時間と言うのがよくあり、早めにラジオ体操をつけたりつけっぱなしにしていたりするとよく朗読に引っかかったのだが、最近はあまりそういうのを聞かない。またプーシキンを読んでいるとよくサロンで自分の作品や古典作品を読んでいる話などが出てくる。あれは単に発表ではなく、もちろん聞き手の心の慰めにもなったに違いない。考えてみれば子どもが寝る前にお母さんに本を読んでもらうのが、人生最初の朗読を聞く体験である。朗読体験が深まれば深まるほど、文学に対する理解も深まるというのも感覚的に理解できることだ。
イシグロの「わたしを離さないで」の中で、愛し合う二人の関係の中でいろいろな話をしたりセックスをしたりするのと同列に、お互いの作品や他の作家の作品を披露しあったり朗読しあったりするところが出てくるのだが、これはひどく新鮮な感じがした。日本の恋人たちの間で、何かを朗読しあうと言う楽しみを持っている人はいったいどれだけいるのだろう。相手の声を楽しみ、相手の表現力を楽しみ、相手の理解力を楽しむ。これは考えてみればかなり高度な楽しみ方だ。カラオケと言うのも似たところはあるが、ナルシズムが先行しすぎているだろう。それに比べると朗読ははるかに知的な行為であって、その楽しみ方も高度だ。
自分のことを考えてみると、芝居をやっていたころは練習のつもりで台詞を読んだり冗談に使ったりして会話が成り立ったということもよくあった。しかし演技と言うのは朗読とはまた違う。詩を交換し合ったこともあるが、あれはイシグロに描かれているのに比べるとずいぶんシャイなものだった気がする。ただイシグロが描いているのも朗読といってもたとえばベッドで二人で座って一人が紙に書いたものを読む、というようなものなのかもしれない。それなら多分無意識のうちに面白い本の話をしていたら「どんな話?」と聞かれてその一説を読んで聞かせる、というような形でやっていたことはよくあったなと思う。そういうくらいのことなら日本でも結構みんな経験していることだろう。
ただ、なんだか、朗読と言うのが官能的な行為であるような気がだんだんしてきたので、ちょっとまたいいなあと思ってきたのかもしれない。演奏にしろ朗読にしろ、不特定多数に向かってやるなら芸術表現になるが、特定少数に向かってやるなら親愛の表現になるし、ただ一人に対してやるならとても官能的なものだ、ということなのではないかと思った。
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