『ボヴァリー夫人』の描写/世界文学とその抑止力

Posted at 06/05/24

今朝は少し靄っているけれどもいい天気だ。二階の窓から下を見ると、矢車菊がたくさん咲いている。外階段の向うにはフランスギクもだいぶ花開いてきた。露草もずいぶん咲いているし、季節的にはもう梅雨が近いということなのだろうか。

デジカメがどうも調子が悪いと思ったら電池の蓋がきちんと閉まるようにしてあるプラスチックの留め金が一つ壊れていた。完全に閉まらないわけではないのだが、不安定だ。買ったのは確か2000年のことだからもう7年目か。まあ仕方がないというものか。

昨日帰郷。持ち帰ったのはクンデラ『カーテン』、フローベール『感情教育』『ボヴァリー夫人』それぞれ上下、イシグロ『遠い山なみの光』。なんというか、どれもこれも集中して読まないと読めないタイプのものだな。小説というのは多かれ少なかれこちらから作中世界に近づかないと読めないものだが、それをあまり意識しないでも読めるものとかなり頑張って近づかないと読めないものがある。後三者はどれも後者だ。クンデラは評論だがヨーロッパ的な文学的素養がある程度ないと接近が難しい部分がある。

しかし、『感情教育』も『ボヴァリー夫人』も「描写」ということに関してはとても面白い。「ドアの下から吹き込む隙間風が、石畳の上にかすかに埃を走らせた。(『ボヴァリー夫人』)」なんて描写はやはり感心してしまう。今はそんな余裕がないが、いずれいいと思った描写の抜書きをしてみてもいいなと思う。

ミラン・クンデラ「カーテン―7部構成の小説論」は第一部「継続性の意識」を読了し、第二部「世界文学」にかかっている。第一部はヨーロッパ知識人の中にある歴史意識についてで、読んでいると歴史意識の希薄化がとみに激しい日本のことがしみじみ思われる。第二部も世界文学といっても主にヨーロッパ文学の事だが、「ヨーロッパのすべての国民は共通の同じ運命を生きているが、しかしそれぞれに固有な個別の経験をもとにして、その運命を別々に生きている。」という言葉はなるほどと思う。たとえば東アジアには、そういうものは皆無とはいえないが、やはりヨーロッパほど意識もされていないし妥当性もないだろう。

私がたとえば東アジアのことを考えると、「諸国民」と言ったときに日本、朝鮮・韓国、台湾、ベトナム、モンゴル、中国と並べていって、はたと立ち止まる。「中国」というのはどう考えても「諸国民」の一つとして考えるには地理的にも人口的にも巨大すぎるのだ。その巨大さは周辺諸国には災難ですらある。そういう意味でこれはヨーロッパ、特に東欧におけるロシアの存在に類似している。しかしロシアというのは16世紀以降急速に膨張したに過ぎない存在で、それまでは、あるいはその後も、モンゴルやポーランドやスウェーデンにたびたび蹂躙されて来ている。中国も無論征服王朝に何度も支配されているが、ロシアとはかなりカラーが違う。巨大な質量で周辺諸国に甚大な影響を及ぼすという意味では、宇宙空間における巨大質量星に似ている。

そうした中では、古代中国に合従連衡政策があったように、東アジアにおいては中国に対する合従連衡が図られなければならないが、世界的に見るとアメリカに対する合従連衡のほうがより上位の必要性・喫緊性を持っているために、対中国政策は日本などの場合は疎かになっているだろう。ただこの世界システムがいつまで続くのかは分らないし、地理的にはもちろん近いほうが脅威である事に違いはないので、いろいろな手を打っておく必要はあるだろう。

ただここ数世紀の歴史においては、日本のほうが中国よりも比較優位を持っている時期が長かったので、日本人の意識にどれだけ上っているかは分らないが、アジアでは日本が合従連衡の対象に見られていることも確かだ。アジア諸国の間では日本の経済力と中国の政治力でお互いに牽制しあってくれるのがちょうどありがたいと思われているだろうが、現実問題としては中国は政治・軍事・経済すべての面で急拡大している。現在のところ日本はアメリカに接近することでそれを乗り切ろうとしているが、それだけではあまり上策のようには思えない。

たとえば、村上春樹が中国やロシアでよく読まれているというのはいいことだろうと思う。中国もロシアも文の国であるから、その作品は日本では多く読まれているが、日本からの発信という点ではきわめて不十分だったからだ。同じ世界文学を共有しているという意識が生まれることは、生臭い話になるが、ことが起こりそうなときにその抑止力として働くことは十分有り得ると思うからだ。

そのためには、クンデラの言うように国民文学だけでなく「世界文学」というものを構築する必要があるだろう。実際に諸国の作家は他の国の作家の影響を強く受けて創作の新たな地平を切り開くことは頻繁にあるのだが、文学研究においてその重要性があまり認識されていないのは、「フランス文学」や「ロシア文学」とならぶものとして「世界文学」という研究がなされていないということが大きいのだろうと思う。ダムロッシュの言うように言語で読む必要もない、翻訳で読んで諸国の作家は新しいものを創作しているのだから、そういう文化現象自体をもっと研究し、重要性を訴えていく事は重要であるように思う。

ああだいぶ書くつもりもなかった事を書いてしまった。近くの小学校の運動会のリハーサルの太鼓の音が煩くて、思考が妙な方向に行ってしまった。深く息をしなくては。

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