「いいなあ」と思える作家

Posted at 06/05/12

志賀直哉『灰色の月・万暦赤絵』読了。読み終わって一晩たち朝の寝床の中でいろいろなイメージが切れ切れに立ち上がってくる中で、「志賀直哉はいいなあ」という思いが幸福感とともに立ち上がってくるのを感じた。世界の広がり、という点で、最近読んだいろいろな小説の中で、最もそれが感じられる作家だという気がした。それに対抗できる、というかこれも遥かな高峰、というのはプーシキンだけだ。二つの山が朝の霊気を帯びた雲の上に二つだけ顔を出し、雲海の中で荘厳な朝日を浴びている、という感じがする。

世界が実在するという感覚、これは言葉で説明されることを拒否しているようなところがあるが、とにかく実際読まなければ分らない。読んでも分るとは限らないが。絵画であれば描き手は時間がかかっても鑑賞者はそんなに時間をかけてみる必要はないが、小説と言うものは読み手も時間を必要とする。しかし詩なり小説なり、その他の手段では再現不可能なものを詩なり小説なりで表現するということが本来の意味での芸術ということだろう。これはどう読む、どう解釈する、という批評を超えたところに芸術としての創作の実在が存在するわけで、読み手がいかにしてそこに到達できるかどうかはこれも説明不可能で、「読む」こと自体が現実には一生ものの仕事でもある。

しかし文章と言うものは「読まれる」ことによってしか完成しない芸術であって、「読み手」を常に必要としている。十分に読まれないままある種の種子のようにずっと眠りつづけなければならない運命に晒されている文もまた多いのだろうと思う。批評というものの使命は、そういうものを掘り起こすところが本当の意味での崇高さをもっているのだろうと思うし、そういう意味ではエリオットのジェームズ王朝期の諸詩人の掘り起こし(ジョン・ダンら)や小林秀雄の本居宣長の読み直しなどが批評の崇高さを実現した仕事なのだろうと思う。

もちろんまだ読まれていない現代作家の作品を正当に評価し、読まれるように取り上げるのも批評の重要な仕事ではある。そういう意味では文学賞と言うのは社会的企業的に執り行われている大掛かりな批評であると言うこともできるだろう。それが十分に機能しているかどうかはまた別の問題だが。すでに読まれている作家についても読み手の読みきれない部分があるのは当然で、そこを取り上げていくのもまた批評の重要な仕事であることもいうまでもない。

今朝は天気がいい。昨夜は冷え込んだが、空は見なかったのだけどかなり放射冷却があったのだろう。今日はもうさわやかなからっとした陽射しが差し込んでいて、気温が上がりそうな感じがする。影の色がずいぶん濃くなってきた。

昨日は松本に出かけ、用事を済ませたあと、午後は少し疲れが出て仕事があまり進まないので久しぶりにドイツ語を勉強する。思い出したようにやるだけなのでなかなか前に進まないが、それなりに理解が定着しているところもあり、面白いものだなと思う。午後から夜にかけての仕事は比較的閑で、もう少し繁盛してもらわないと困る。

野口晴哉『治療の書』(全生社、1977)を買う。これも文芸書ではないがじっくりと時間をかけて読み解かれるべき書だなと少し読んだ限りでは思った。

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