『王様の仕立て屋』/保坂和志/村上春樹の世界性/吉田秀和の凄み
Posted at 06/05/04 PermaLink» Tweet
普段なら帰郷している木曜日だが、連休ということで仕事がなく、東京で過ごしている。ここのところ走っていたためか、ちょっと疲れに支配されているような感じ。ずいぶん広く深い印象にとらえられているのだが、実際に人間が考えられることというのは狭く浅い。思考の範囲が広がれば広がるほど一つのことを考える濃さは薄くなり、茫漠とした印象になってきてしまう。今のところある種の思考の表面張力で広い範囲がつながっているが、その薄さが分子レベル以下になってしまうと思考の広がり自体が破裂してしまう。というような感じ。といって分かるかどうか。
少し方向性を出すためにものを書いてみようと思う。火曜日はいつものように帰郷したのだが、丸の内の丸善で『王様の仕立て屋』10巻を買う。回数券は使えないので特急は自由席。空いていた。特急の中では保坂和志『季節の記憶』(中公文庫)、『王様の仕立て屋』を読む。
『王様の仕立て屋』はどんどん面白くなっている感じ。挟み込むギャグが面白く、批評性がある。作者が設定や物語の展開(つまり自分が構築したもの)に茶々を入れている突っ込み方が絶妙。構築の結構がしっかりしていて、茶々に破壊力があるというこの方向の漫画としてはある意味古典的なパワーがある。ネタが薀蓄的だったり絵がオタク的だったりするのをある種の時代性と見れば、その批評性もむべなるかなである。
『季節の記憶』は何も事件が起こらず、淡々と散歩の情景などが描写されていく中にある種の実在感が浮かび上がってくると言う感じで、この作者が自然科学を強く肯定するのに奇異な印象を持ったことと合わせて自然科学的な作家とでも言いたい感じ。考えてみればシートンもファーブルも、「観察」という自然科学的な方法で強い文学性を出しているわけで、文学と自然科学の接点というのはそういうところにあるんだなと改めて思う。保坂が風景描写こそが文体の親、というかなり力強い宣言をしているのもそういう方法論的・志向的特性から来ているんだなという気がした。ただもちろんこのことは保坂個人にとどまることではなく、文学というものの本来的な性格を指し示している部分がある。文学はいわば「単なる人文学」の範疇を超えたところもカヴァーし得るということである。
火曜の夜に仕事を済ませ、水曜の朝6時の普通電車で上京。各駅停車で東京に出るのは久しぶりだ。車窓の風景も、各駅停車でなければ気がつかないこと、味わえないことが多い。車内は閑散。逆に、いつも特急だと通り過ぎるのが気持ちいい藪の中の行程が普通電車だと早く通り過ぎてくれ、という感じになるのが面白かった。人間の心というものは速さに支配されている部分があるらしい。
7時過ぎに甲府に着き、ノータイムで高尾行きに乗り換え。車内はだんだん込んでくるが、結局終点まで私の座っていた四人がけのボックス席が相席になることはなかった。特急でも感じていたが、大月と高尾の間が実に長い。高尾到着は9時前、東京行きの快速に乗る。朝駅前にいた高速バスは新宿到着が9時だったから、この時点で相当差がついている。快速は結構込んできたが、まだ立っている人はいない。三鷹で特快に抜かれたが、特快は大混雑だったのでそのまま東京まで行くことにする。東京駅に着き、オアゾの方に歩きながら時計を見たら10時だった。電車の中では『王様の仕立て屋』を読み直し、『月刊全生』5月号を読んでいたが、風景を見ていた時間もだいぶ長かった。
丸善で文庫コーナーで『フランス名詩選』(岩波文庫)を買う。寝不足のせいか精神的に偏りが生じていて、こういうときは後でなぜこういうものを買ったのか説明できないものを買うことが多いのだが、そのときは誰かの詩句が非常に心に残ったのだ。「去年の雪、今いずこ」という台詞が唐十郎の『鉄仮面』という芝居に出てくるが、これがフランソワ・ヴィヨンの詩句だということを知る。いや、前も読んだ気もするのだが。4階の喫茶コーナーでハヤシとカレーのダブルソースライスを食べて家に帰る。
その後家で何をしたのかよく思い出せないが、こちらで村上春樹の世界性についての文章を読んで、ああなるほど、言われてみれば村上には「父」が出てこない(現実的にも象徴的にも)なと感心した。父なき時代、父なき世界の文学が村上で、そこに世界性があるというのはあまりに単純明快だが、そういう部分があることは確かだろうなと思う。
ちょっと休んで2時半ころまた出かけ、神保町に出る。『王様の仕立て屋』の大河原遁の旧作が読みたくなってジャンプコミックスででているらしい『かおす寒鰤屋』というのを探しに行ったのだが、新刊の漫画書店と古本屋を数軒回ったが見つけられなかった。
だから、というわけでもないが吉田秀和『文学のとき』(白水uブックス、1994)を買う。この人の音楽批評は朝日新聞を取っていたころはよく読んでいたが、最近はあまり文章自体を読んでいない。中原中也との交流を書いたところが興味深い。この人の音楽批評は何も分からないまま感心して読んでいたが、今文章を読んでみると才能のきらめきというよりは「平凡の凄み」みたいなものがある文章だと思う。天才だろうが何だろうが、平凡なものが自分の見える範囲で斬って捨てる。しかし、その斬って捨てたところから何か異形なものが再生してくることを知っている。その気味の悪さのようなものをこれだけ書ける人は平凡人でしかあり得ず、自分の才能のなさまで気味の悪いくらいよく知っている。そして天才への共感は全く示さないし、自分の才能のなさを嘆くこともなく、自分が才能あるものに見られたいがためのてらいもゼロで、それがゆえに生ずる醜い嫉妬や足を引っ張ろうとする悪意のようなものとも無縁である。これはおそらく、中原や小林秀雄のような本当の天才と自分が異質な人間であるということを徹底的に知っていたその冷たいまでの自覚からきていて、その時代性の産物であると同時に、その「自覚」という点での不気味なまでの「覚り」の深さのようなものがこの人にはあるのだなと思う。
現代人はなかなかこうまで深く自覚できない。自分の才能がいかに中途半端であれ、その中途半端な才能にすがって生きようとし、それがために醜くならざるをえない。そういうことに無縁である平凡人としての吉田秀和は、現代人としては、あるいはもっと広く近代人としても、ある種の異形なのではないかという気がする。
夜は阪神巨人を見ながらうとうと。私と同世代の工藤投手が6回無失点。原監督の采配もなかなかすごい。堀内時代の「失われた二年間」がなければ今頃どれだけのチームになっていたか、と思う。だいぶ悪口を言われた人だが、最近の采配は凄みがある。夜は早めに寝たので『オーラの泉』は見られなかった。朝は早起きして散歩に出かけ、西友でクロワッサンを買って帰って朝食。クリスタルガイザーのスパークリングを飲みながらこんな文を綴っている。
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