笙野頼子『タイムスリップ・コンビナート』/アリダ・バリの死

Posted at 06/04/26

昨日。冷蔵庫の修理に水曜日に来てもらうことになって、急遽予定変更。郷里の方のスケジュール調整に手間取ったが、まあ何とかなった、ということにしておこう。おかげですっかり昨日丸一日使うことが出来、笙野頼子『タイムスリップ・コンビナート』(文春文庫、1998)が読了できた。こういう日でもなければ笙野作品を読むなんてことは出来なかったんじゃないかという気さえする。

笙野の小説を読むのは体力がいる。気力もいる。昨日も書いたが、もともと好きなタイプの作品ではないので、ある種の苦行になる。しかし読み終えて、ああこういう作品、こういう作風もあるんだなあと意外の念を持ち、世界が広がった、という感覚を持つ。プーシキンを読んでいて、『ボリース・ゴドゥノーフ』を読んだとき、強い違和感を感じてこの作品をどう解釈すればいいのかと戸惑ったが、詳細に検討し、感じたことを書き並べ、読み込んでいくうちにこういうことなんだなと分かってきた、そうなってみると苦労しただけに「理解した」という感覚が強く持てる、私にとってそういう種類の作品だなと思った。

村上の作品の世界はある種のハーモニーが実在し、そのハーモニーの崩れから何かが起こり、世界の真相(実相とでも言うべきか)の一部が明らかになったり世界の修復に乗り出したりするようになっていると私は感じるが、笙野の場合は全く顛倒した世界から話が始まり、徐々にリアルに帰ってくる、という感じがある。「タイムスリップ・コンビナート」と「下落合の向こう」は電車に乗る、ということがテーマだといっていいと思うが、電車の中でどんどん妄想が膨らんでいく様相は私も普段電車に乗っていて持つ感じに近いなと途中で思い始めた。下車したとたんにそんな妄想はきれいさっぱり忘れ去ってしまうことが多いのだが、そういうものを作品化するとこういうことになるのかと一寸感心した。

あんまり沢山書いても仕方ない、というか結構重要なテーマをこの作品を読んでいる最中に獲得したように思うのでまた違う形でまとめてみるつもりなのだが、こういうところに書ける、というかこういうところにしか(多分)書けないことを書いてみると、最近家の周りをあまり散歩しなくなっていたのだが、この作品を読んでいるうちに散歩したい気持ちが蘇ってきた。多分古典主義的な、あるいは伝統とか品とか言うことをずっと考えていたときには、家の周りの殺風景な場所を歩くのが嫌になっていてどうも銀座やら九段やらを歩いていたのだけれど、家の周りを歩くのも意味のあることのように思えてきたのだ。

大きく言って、笙野の作品は「好みの分かれる作品」だと思う。つまり音楽のように、パンクが好きな人はパンクを聴き、へヴィメタが好きな人はへヴィメタを聞き、バロックが好きな人がバロックを聞くように、あるいは洋服のようにトラッドが好きは人はトラッドを着、ゴスロリが好きな人はゴスロリを着る(ちなみにゴスロリというファッションは敵意ないし「危険に満ちた世界に対する身構え」をファッション化したものではないかと思ったのだが、どうなんだろう)というような次元の好き好きの問題だなと思った。バイロンとかヘミングウェイとかと共通する、ある種のロマン主義的な作品なんだと思う。解説で『ブレードランナー』に似ているという話が出てくるが、まあそんなやら『ニューロマンサー』なんかも一寸思い出したな。ダンテの『神曲・地獄編』なんかも。

「タイムスリップ・コンビナート」に「いったん滅んだ後の近未来や、地球からうんと遠い星の光景というのは、どこか不況っぽいものなのかもしれないという気がしてきた。」という言葉があるが、これはなんか私の感じているものに一寸近い気がした。何かの影響かもしれんが。もうひとつ、「シビレル夢ノ水」で「猫は確かに幻を払う力を持つ」というのも何か実感があるなと思う。

最初は饒舌な妄想の連鎖でそれを我慢して読み越える(全く上りのきつい山道のようだ)ことが出来ると、峠を下ってくるのは案外楽しい。もちろん途中でまた峠があったりするのだが、たとえば「シビレル夢ノ水」の終わりごりには「一面の瓦礫の向こうは薄い青で、空が地上数十センチにまで降りて来ている、ように見えた。半分曇りかけた薄い青灰色の空。壊れた壁から、その空に向かって、乾いた水道の銀色の蛇口が突き出している。」といったリリカルな記述があって、ふっと思いがけない景色が見えたりもする。

まあこういう山あり谷ありの作品は、日常のルーチンをこなす日々の中で読むことは結構ツラい。ただ、読むことによって確かに世界の広がる作品であることは、自分にとっては確かだと思った。

いろいろネットで調べるうち、笙野は大塚英志や福田和也と「純文学論争」というのをやった、ということを知った。全然認識もしていなかったが、今読み直してみたら福田の『作家の値打ち』でも「純文学は衰退したか」というコラムでそれに言及していた。いろいろ読んでみると福田の見方も一方的だなと思うが、だからといって言わんとするところが分からないわけでもない。ネットのほかの記述で、佐藤亜紀が大塚を批判したりあるいは新潮社と喧嘩して版権を引き上げたりしていることを知る。なるほど文壇ではいろいろなことが起こっているらしい。そういう文壇での争いといっても私は浦島太郎のようなものだが、まあ徐々に知っていきたいと思う。私はロマン主義者ではなく調和主義者だから、あんまり争いに近づくのは好まない。下手に血が騒がないようにしないといけないところが調和主義者とは言い切れない部分があるのだが。

***

ウェルズの『第三の男』に出演していたアリダ・バリが84歳で亡くなったという。57年前の映画である。映画の歴史というのも長いのか短いのか、よくわからない。ご冥福をお祈りしたい。


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