村上春樹作品のファッション性

Posted at 06/04/25

昨日。寝不足で中途半端な頭のまま、午後外出。銀行を回り、丸の内の丸善へ。カズオ・イシグロ/入江真佐子訳『わたしたちが孤児だったころ』(ハヤカワepi文庫、2006)、佐藤亜紀『1809 ナポレオン暗殺』(文春文庫、2000)、笙野頼子『タイムスリップ・コンビナート』(文春文庫、1998)を購入。そのままあまり出歩く気にならず、帰宅。ローソンで買ったハーゲンダッツのバニラを食べて、寝不足解消。友人から電話がかかってきて話す。暫く創作関係の話をして、電話を切って夕食を食べる。食べている間にまたかかってきて、一寸困った相談。暫く話したが、どうなったか。うまく行っていることを祈る。最初の電話がかかってきている間に、冷蔵庫が異音を発したので心配になったがよくわからず。様子を見ようと思ってそのまま寝たが、朝起きたら冷凍室の中身が融けていた。これは何か異常が発生したのだろう。こちらのスケジュールに障害が生じそうだが、やむをえない。修理を頼まなくては。といっても買ったのは1987年。まだ部品があるだろうか。

村上春樹「蛍」を読む。読んでみて、友人とビリヤードをする場面がでてきて、これは読んだことのあるものだということに気がつく。確か大学生のころ、雑誌に掲載されたのを少しだけぱらぱらと読んだ、自分の中で「村上と言うのはこういう人」、という印象が作られた作品だった。今読むと、当時ほどの引っかかりは感じない。当時はおそらく、わたせせいぞうとかオフコースとか、「おしゃれ」系の人がファッション的に読むモノだな、という気がして敬遠したのだと思う。今となってはかなり違うものととらえられるが、そのイメージはずっと強かったのだなと思った。

同じ村上でも村上龍の方が硬派で、村上春樹は軟派という印象が強かったが、ファッション性という点では実は村上龍の方がむしろ強いのかもしれない、もちろん方向性は違うが。ファッションを超えたものが見えてくるかどうかが重要だなと思うが、私の見方もずいぶんファッションに左右されているんだなと改めて思う。

笙野頼子『タイムスリップ・コンビナート』まだ50ページ強。90年代の芥川賞作品によくある饒舌な奇想の羅列、という感じで、そういう雰囲気というものが私はあまり好きではないのだが、我慢して読んでいると少しずつ思わぬ方向に連れて行ってくれるものがあるなという感じがする。まあいずれにしても読んでみないと批評は出来ないものだ。当たり前だが。逆に、批評するなら読みきらなければいけないのだが、それはもちろん結構しんどいことだ。書き飛ばす批評と責任を持つ批評の違いは、そのしんどさを引き受けるかどうかということにある、のだな。少なくともある面では。

朝のうち雨もよいの感じだったが、今は東の窓から日が差し込んでいる。さて今日もいい一日であれ。


ランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いします。
人気blogランキングへ

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday