村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』は問題作か

Posted at 06/04/23

昨日は8時前に家を出、松本へ。電車の中で『ねじまき鳥クロニクル』を読む。駅を降りて田園風景の中を歩く。このあたりは今がちょうど花の盛りだ。路地の奥にぱっと華やかな色が広がっていたので時間を気にしつつそちらの方に行ってみる。ちょうど満開の桜。この時期はふらふらと桜のいる方に歩いていってみたくなる。空も青く、風も暖かい。

仕事は打ち合わせだったのだが、昨年までとはずいぶん態勢が入れ替わっていてびっくりした。私自身の仕事は九月からだが、それまでに問題点が改善されているといいのだが。しかし全体的にフレッシュでスタッフもやる気に満ちている。建物も新しくなったし、問題点は徐々に解決されていくだろう。と思う。

12時半ごろそこを出ていつもは前を通るだけの喫茶店?に寄ってみる。どうも西洋のお城風の、駐車場の入り口に鉄仮面をつけた甲冑の兵士が二人番兵をしているという大変趣味のよろしい喫茶店?があるのだが、昼食をとらなければならないので初めてそこによってみる。出来たのは二年位前だったと思うのだが、まあそういう雰囲気なのであまり近寄らないようにしていた。しかし、駐車場はいつも満車だし、思ったよりおかしくは無いかもしれないと思ったのだ。

入ってみるといきなり「お帰りなさいませ」である。おいおいメイド喫茶初体験か?と思ったが、まあそれほど(どれほどだ)奇異なものでもなく、普通に子どもづれの客もいてメイド喫茶的なファミレス(どんなだ)とでも云うか。中は落ち着いたつくりで、黒木のいすとテーブル、窓際に案内されてアスパラと生ハムのパスタとコーヒーをオーダー。『ねじまき鳥クロニクル』を読み進める。味はまあ十分満足できるもの。思ったよりあたりだったなと思いつつ勘定を済ませて店を出ると、「行ってらっしゃいませ」と言われた。あたた。

普通電車に乗って乗車駅まで戻り、そこで跨線橋をわたって特急に乗り換える。『ねじまき鳥クロニクル』を読み続ける。今日は検札が来なかった。なぜだろう。車内販売で水割り(ジョニーウォーカーのレッド)とプリングルスを買って本を読み続ける。韮崎を過ぎたあたりから、右前に大きな富士山の姿。青くて白くて、単色で淡色だ。まるで青い墨で書かれた水墨画とか、青い印画紙に印刷されたモノクロームの写真のよう。こんな富士山を見たのは初めてである気がする。でも乗客の中で、あの富士山に気がついた人はどのくらいいるのだろう。圧倒される美しさのものがそこにあっても、多くの人は気がつかないのだ。そしておそらく私自身もそうして多くの美しいもの、素晴らしいものを見逃しているのだろう。良いニュースは小さな声で語られる、のかもしれない。

『ねじまき鳥クロニクル』を読み進める。列車の進行とストーリーの進行が微妙に重なる。大月を過ぎ、八王子を過ぎ、多摩川を渡り、気がついたら荻窪だ。読み終わったときには中野を過ぎていた。急いで支度をしてデッキに出る。ぼおっとしたまた階段を下り、中央線快速上りホームに上り、オレンジ色の電車に乗る。

東京駅で降りて、丸の内北口を出て横断歩道を渡り、オアゾに。サムシングルージュのケーキが食べたくなった。位置を勘違いしていて地下に潜る。ケーキを二つ買ってスタンプを押してもらい、スタンプカードの抽選に応募する。応募のボックスがもう溢れかえっていて私のカードを押し込むのに苦労した。これだけ応募者が多いって言うのもすごいことだ。さすが東京駅である。

昨夜は何をしたのか、まああんまり覚えていないが、アマゾンで注文してあった本とCDが届いていたのにこちらが留守をしていたため不在票が3枚も入っていた。連絡して8時過ぎに来てもらうことにする。その間に買い物に行こうと思ったがどうも体がだるく、そういうことをする気にならないので夕食はコンビニに出て弁当を買って済ませた。8時過ぎに荷物が届く。ダムロッシュの"What is World Literature?"とグリンカの『ルスランとリュドミラ序曲』である。私はオペラ『ルスランとリュドミラ』の全曲を注文したつもりだったのだが、来て見たら序曲だけで、あとはグリンカのほかの作品とスヴィリドフと言う現代の作曲家のものだった。しかしよくみてみたらプーシキンの小説の映画化したものの音楽の編曲と言うもので、ま、いいか、と言う感じである。

『ねじまき鳥クロニクル』を、福田和也はどのように評価していたっけ、と思って『作家の値打ち』を読む。「これまでで最長にして最大の問題作。」とある。え?問題作?どこが?「発表時多くの評者・読者を戸惑わせ、いまだに戸惑わせている。」何で?そのあとの評語は省略するが、むしろその批評を読んでこっちが戸惑った。96点と言う評価は妥当(最高点)だと思うが、単純に評価できる作品でない、と言うことらしい。こっちが驚いた。何が問題なのだろう。確かに満州国の評価に問題が無いとは言わないが、それはいわば思想的なスタイルの問題で、プロレタリア作家がブルジョア文化を肯定的には描けない、と言うまあ立場とかスタイルから来る現実的な縛りに過ぎず、描かれていることはもっと人間的な真実の部分に到達していると思う。逆に中国人やモンゴル人、あるいはロシア人の描き方に反発を感じると言う人もあろうが、それもまた同じことである。村上が描こうとしているのはそんな表面的なことではない。

ネットでいろいろと批評を見ているうちに、自分の中でのこの作品に対する考えがだんだん見えてくる。この作品はアンジェイ・ズラウスキ監督の『狂気の愛』(原作はドストエフスキー『白痴』)に似ている。『狂気の愛』をシネヴィヴァン六本木で見たときはもう感動と言うか興奮と言うかで一杯だったのに、同時にエレベーターに乗ってきた女性は涙を浮かべんばかりの勢いで映画を罵っていた。ああ、この映画のよさを分からん奴もいるんだなあとそのときはびっくりしたが、世の中そんなものかも知れぬ。

『ねじまき鳥クロニクル』は性描写が多く、暴力シーンも多い。多分抵抗を感じるのはそういうところなのだろうと思う。しかし、セックスのためのセックスでなく、暴力のための暴力で無いことは明らかで、人間性の根源に近いところを描こうとするとこうなってしまう、というか性とか暴力とか言うものは人間にとっていちばん深いところに――それこそ深い深い井戸の底に――あるものだということが語られているのだと思う。そのほか、「予言」とか「癒し」とか、今日的な問題が複雑に絡み合って取り上げられていて、いや実際、こんなに面白く刺激的にも小説と言うものは書けるのかと私は仰天しているのだが、ネットの評語を読んでいると逆の意味で仰天する言がいろいろでてくる。

「どこで面白くなるのかと思ったらどこまで行っても面白くならない。」え?最初の「泥棒カササギ」を口笛で吹きながらパスタを茹でているところに妙な女から電話がかかってくる出だしからして既に面白くないか?確かにある種の臭みはあるが、まあそれは村上テイストだと思って我慢するしか無い種類のものだろう。「6年間も一緒に暮らしていたのに花柄のトイレットペーパーが嫌いなことに気がつかないはずが無いから描写が不自然だ。」え?そんなこといくらでもないか?ちょっとした事が露見してそこから男女の仲が崩壊していくなんてことはあまりにありふれているというならまだ分かるが。しかし大体この描写はある種のメタファーであって、その背後に何を言わんとしているかを読み取るしか無い種類のものだろう。まあそういう意味で言えばこの作品は予言と暗喩に満ちていて、そういうものが苦手な人にとってはアレルギー的な反応をおこす種類のものかもしれない。

しかし現代芸術というのはそういうものじゃないのかな?そのようにしてしか語りえないものを語るのが現代という時代において小説を含む芸術に課せられた使命なんじゃないかと私などは頭っから信じて疑わないのだが。でなければカフカや安部公房をいったいどのように読もうと言うのだろう。この作品を含めて、村上春樹の作品と言うのはもっと大きい声でその面白さを訴えていかなければならないものなのかもしれない。

私自身にとっては、こんなにリアリティに富んだ作品は逆に今までになかった。もう想像できないくらいリアルで(笑)、出てくる警句も――良いニュースは小さな声で語られる、とか、想像してはいけない、想像することはここでは命取りになるのだ、とか――もう全くその通りだなと思ってしまう。いったいどこまで深い井戸の底に村上春樹は降りたのだろう。

ノモンハンだって動物園だってシベリア抑留だってある意味メタファーだ。それらの描写がが事実と言う意味では不正確かもしれないと言うことは、かなりはっきりと作中で暗示されている。(ネタばれ防止のために限定された表現になっています)それらは「村上と言う井戸」の底の世界の話であって、「事実は必ずしも真実ではなく、真実は必ずしも事実ではない」。

いずれにしても、私自身もこの作品について語るにはまだあまりに時間が足りないようだ。長い時間をかけてこの作品のことについて考え、思い出し、気付き、組み立てていくことをしなければ、この作品はつかみきれない。この作品のさまざまな登場人物は、いろいろな意味で私自身と重なる部分を分有している。子供のころから「痛み」と言うものから逃れられなかった、という人物が出てくるが、私も小学校高学年くらいから高校にはいるくらいの頃まで――今考えればそれが思春期というものか――いろいろな痛みから、特に頭痛から逃れられなかった。他の人が自分と同じようには痛みというものを感じていないのだということを知ったときは驚いたし、痛みの無い世界では人はどのように何を感じるのだろうと不思議に思った覚えがある。

私の場合は半年くらい病院を回って割合単純な病気が原因だったということが分かり、それについては嘘のようになくなったのだが、いろいろな痛み――主に心の面での――はそれからも手を変え品を変え表れてきて、まあある意味そういうものに慣れてしまったりはした。ま、そんな感じでいろいろな登場人物の語る自分、あるいは描かれた事物に、自分や自分を取り巻くものたちが見出せる部分が実に多かった。しかし、村上の描写が助かるのは、登場人物、特に主人公が相当明確に自己というものを持っているために、私自身が必要以上に感情移入をしなくて済む、というところにある。つまり、登場人物が「私」そのものになることはなく、「どこか遠いところで行われている実験」を見ているだけで済むのである。そういう意味ではドッペルゲンガー的な構造が最初から織り込まれていると言っていいのだろう。ただ私自身が心理的な混乱のさなかにあったときにこの作品を読んでいたらいったいどんな目にあったかはわからない。

まあそんなこんなを考え合わせていくと、この作品は構造的にも相当複雑だし、語りかけられてそのままになってしまったモチーフも少なからずあるように思う(私自身はそういう未発の可能性が多く含まれた作品というのは愛すべきものだと思うのだが)。そのあたりが嫌な人には嫌なのかもしれないなと思えてきた。

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