『ねじまき鳥クロニクル』/批評的欲求と創造的欲求

Posted at 06/04/21

昨日はあいた時間は村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』をずっと読んでいた。いろんなことを考えた。実に、いろんなことを。あんまり考えすぎてそれについて書くことは難しい、少なくとも今は。

昨日は午前中はかなり強い雨が降っていたのだが、昼間には嘘のように上がり、強い陽射しがやってきた。晴れると、春というよりもう初夏だ。雨が降ると、早春だ。私は気づかなかったのだが、今朝は少し雪がちらついたのだという。私も今もストーブをつけている。でも晴れると、そんなことはみんな嘘のように思える。

午前中に第1巻を大体読み終わっていたので、仕事に行く前に買っておこうと思って、昼食後に駅前の書店に出かけて『ねじまき鳥クロニクル』の第二巻と三巻を買った。一巻はないのに、二巻と三巻がそこにあるのは、前から知っていたが、先週から売れていなかったのだ。もちろん一巻がない小説の二巻三巻を買うなんていうのは偶然そういう自体になった人がいなかったらいつまでも売れ残ったままになっただろう。だからちょうど、村上春樹的な言い方だが、ジグゾーパズルのちょうどよいピースが見つかったのだ。私にとっても、書店にとっても。

一度家に戻ってきて一巻の残りを読み進めた。読み終わったのは仕事の後だったが、そのまま二巻に入り、読むのが止められずに午前二時半まで読みつづける羽目になった。

朝起来たのは7時過ぎだったが、なんとなくいろいろなことを反芻して、直ちには読みはじめなかった。渇きに近いくらい読むことを欲していた。そんなことは久しぶりで、小説では荒俣宏の『帝都物語』を読んだとき以来かもしれない。東京にいるときは時間があるのだが、こちらにいるときはいつも時間がないので、そんな贅沢なことは出来ないのだ。しかし、時間が区切られているからこそできる、あるいはわかることもある、ということはある、のだと思った。

朝食の後ちょっと農作業の手伝いのようなことをする。耕運機を上の畑に上げるのを加勢したのだが、一度転んでしまったらエンジンがかからなくなってしまった。道の途中で止まったままになっている。一番大変なところは乗り越えたから、後は大丈夫だと父は言うのだが。

今、ちょうど『ねじまき鳥クロニクル』の第二巻を読み終わったところだ。今はここまでの感想を書く気がしない。というより、あまりにも散らばっていて、文字にできるようなことではない。でもまあ、今は読み始めたときより、少し幸せになっている気がする。

今は一息つこうと思って日記を書いているのだが、ある種の深呼吸のようなものだ。これからまた水の底に潜っていこうとする前の。

***

エリオットの『文芸批評論』も面白い。普通に感受性の強い多くの人は、批評を書くとき創造的な欲求が入り込んできてしまって、純粋に批評でなくなる、という指摘はそのとおりだなと思う。詩人は批評に創造的要求の満足を求める必要がないから、純粋に批評になるのだ、というのはなるほどなあと思う。作家の書く批評が説得力があるのはそういうこともあるのかもしれないし、逆に作家の書く批評が時に妙に素っ気ないのは、そのせいなのかもしれない。

この日記が創作的な欲求で書かれているのか、批評的な欲求で書かれているのか、よくわからないし区別は出来ない。創作的な批評もあれば批評的な創作もあるのだろうけど、少なくともそれが意識されいなければ、職業的な創作家や批評家になるのは難しいのだと思う。創作とか批評とかが何を意味するのかをもう少しつかまなければ話にならないのだけれど。 


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