「村上春樹は夏目漱石以来もっとも重要な作家」/ファッションリーダーとしてのウィンザー公

Posted at 06/04/18 Trackback(1)»

昨日。村上春樹『スプートニクの恋人』読了。なんだかぼおっとしてしまった。なんというか、うまく言えない。ディテールについてはいいたいことは結構あるのだが、とりあえずそういう問題ではない、という感じだ。村上の短編は奇妙な感じというのがあるが、『スプートニクの恋人』はラスト近くを読んでいるとなんだか気が遠くなるような感じがしてきた。いろいろ始末のつかない感情や感覚や思考が出てきてぼおっとしてしまうと言うか。普段は仕舞っていてなるべく外に晒さないようにしている、というよりそういうものが仕舞い込まれていたということさえ忘れていたような感情や感覚や思考が次々に繰り出されると言う感じである。短編でもそういうものを部分的に感じはしたのだが、長編になるとその露出が本格的になり、あとで自我を収拾するのに一日くらいかかる、『スプートニクの恋人』というのはそういうところがある。

『スプートニク』のもとの意味は旅の同伴者だ、という言葉が出てくるが、ロシア語辞典で調べてみるとそういう意味もあるけれども単純に「衛星」と言う意味もある。月は地球のスプートニクなのだ。スプートニク1号とは衛星1号ということで、北朝鮮のミサイルが労働1号だったり中国のロケットが東風1号だったりするよりももっと単純だ。しかし逆に月は地球の同伴者だ、と言われればまことにその通りなので、考えてみれば美しい。

ラストの必然性がもうひとつうまく飲み込めない。狐につままれたような気持ちが残る。一寸時間を置いてから読み直してみて、また考えてみた方がよさそうだ。井伏鱒二『山椒魚』のラストを思い出す。あの有名なラストシーンを、何回目かの全集に所収したとき、井伏は削ってしまった。無いほうが短編として引き締まっているように思える、というのが理由だったようだが、あれは結構衝撃を呼んだ。その反響を井伏は驚いていたようだが、小説がある社会性を持ちえるとその削除加筆も大きな影響を及ぼすと言う典型的な例だ。『スプートニクの恋人』のラストは削られてもそれはそれで成り立つ気がする。どっちがいいのかは、よくわからない、今のところ。

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人と人との距離感を見定めると言うことは難しいが、自分と小説、あるいは自分とさまざまな「もの」の間の距離を感を見定めることもそう簡単ではない。「もの」を使い倒すこと、人の好意に甘えたり親しく付き合ったりすることは距離の近さを意味するが、「もの」を大事にしたり人を敬遠したりすることは距離の遠さを意味する、単純に考えれば。人と人との距離感の見定め方の違いがそれぞれの文化の違いであろうし、たとえば大阪の人は東京の人に比べてその距離が圧倒的に短い。東京人は大阪人の「近さ」に戸惑うし、大阪人は東京人の「よそよそしさ」に腹を立てる。あくまで私の感じに過ぎないが。

村上の作品を読むということは、私にとってはそういう距離感をとるのが難しい作業だ。ある意味非常に近いところにある表現があり、とてつもなく嫌いな表現もあり、何を言っているのかわからない表現もある。ただ、大枠としては現代日本の枠内にあることは確かで、19世紀初頭のロシアとかに比べるとなんとなく知っていることのような気がしてしまい、距離感が分からなくなってしまうのである。気が遠くなるような感じというのはおそらくそういうことなのだと思う。気合を入れなおしながら、もう少し彼の作品を読めばもう少し分かってくることもあるかもしれない。

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そういうことで一寸先のことが分からなくなって途方に暮れ、呻吟していたが、とりあえずカズオ・イシグロを読もうと思い、町に出かける。駅前の本屋で探したが、考えてみれば出版社も知らない。大手町に出て丸の内の丸善の検索機で検索してみたら早川書房のepi文庫と言うのに入っているということが分かった。早川といえばSFとミステリーだと思っていたので一寸意外だが、文庫のコーナーでカズオ・イシグロ/土屋政雄訳『日の名残り』(ハヤカワepi文庫、2001)を購入。執事の話というのは知っていたが、館の新しい主人がアメリカ人になった、という話だとは知らなかった。苺のケーキが食べたくなったので喫茶店をいくつか探すが見当たらず、東京駅の八重洲口のほうに歩いて、千疋屋の小さなティールームに行き当たり、ショートケーキと紅茶を頼む。小さな店であまり落ち着かないこともあってケーキを食べたらすぐ出た。

少し歩きたいなと言う気持ちがあったのでスイカに3000円チャージして構内に入る。どこに行くと言うあてもなかったが山手線に乗り、新橋で降りてみた。以前行った沖縄料理店の場所をもう一度確認しようと思ったからだ。ガード沿いを15号の方にかなりいったところにその店はあったが、昼間見るとあたりの様子も印象がかなり違う。そのまま15号沿いを(そのときは15号だとは気がつかなかったが)南の方に歩き(南の方と言うことにも気付かなかった)、だんだん芝のほうに近づいていると言うことを知って右折してみる。東京美術倶楽部の前を通り(こんなところにあったんだ)、交差点に出ると御成門の駅で目の前に東京タワー。とりとめもない芝公園が広がっている。公園を少し歩くと、外国人の多いこと。一寸びっくり。東京タワーの方に歩くと東京プリンスホテルがあった。右に曲がり、交差点を左に行くと神谷町だが、上り道も鬱陶しいので最初の交差点に戻り、北に向かって歩く。バンコック銀行が見えてきて、そういえばこのあたりに書原があったはずだと一寸探す。あちこち路地に入ったが結局元に戻り、ナショナル・バンク・オブ・パキスタンの入っているビルの1階に見つける。

書原でいろいろな本を見たが、結局買わないで出ようとし、レジの左側に美術書のコーナーがあってそれを一通り見たら、林勝太郎『紳士の服装』(小学館ショトルライブラリー、1997)というのを見つけて買ってみた。これは「サライ」に連載されていたものをまとめたものと言うことで、一度そういうものを系統的に知識として知っておきたいと言う気持ちもあり、買ってみたのだが、そんなに系統的なものでもなかった。紳士靴の本を買ったのも確かここだったし、書原ではなぜかこういうものを見つけて買ってしまうという相性があるらしい。

この本で実感したのは、あのシンプソン事件のウィンザー公(エドワード8世)の男性服飾史における突出した位置だ。セーターを初めてゴルフで(半ば公の場だ)着たのは彼だし、そのほかにも服装に多くの革命を起こしている。写真を見てもずいぶんかっこよくて驚く。塩野七生が彼のことを『男たちへ』でくさしていて、その影響で私も彼のことには余り興味を持たないで来たのだが、『王様の仕立て屋』で少なくともファッションリーダーとしてウィンザー公は相当大きな存在だったことを知り、この本でそれに納得した。まあ王様や指導者としてはともかく、かっこよさという点では絶対に確かだ。

中途半端に4時を過ぎていたが、中途半端に腹が減っている。朝は食べないし、昼はお茶漬け一杯だった。和菓子やケーキを食べたといってもずいぶん変則的だ。しかし今食べてしまうと夜が具合が悪い。どうしようと思いつつ新橋から銀座の方に歩く。結局松屋まで歩いて鰆の唐揚のお弁当を買い、電車に乗って帰る。地元の酒の量販店で麦酒とクコの実や南瓜の種が入ったミックスナッツを買って家で食事をした。6時を過ぎていた。

つんである本の一冊に福田和也『作家の値打ち』があったので、そういえば最近読んでいる作家はどんな風に評価されているんだろうと思い久しぶりに目を通してみる。佐藤亜紀は「大器として期待されながら、いまだに片鱗しか見せていない。」とあり、『天使』は取り上げられていなかったが『バルタザールの遍歴』が72点のほか、3作とも70点以上だった。彼の基準によれば「現代の文学として優れた作品」である。須賀敦子が評価していたので読もうとしたのだが読めなかった池澤夏樹は「常に気が利いているがそれだけのこと」という評価で笑う。お気の毒に。車谷長吉は福田とは対立していると聞いていたが、人間的にはくそみそに言っているけれども「今日においては比類のない独自性と完成度を備えている」とあってそうだよなと思う。古井由吉は「近代小説の構成原理や現実感覚を大きく逸脱し、むしろ古典的とも云うべき日本語の語りを完成しつつある」と最大限の賛辞。

村上春樹は、「現代作家の中で最高の実力と資質を持つだけではなく、近代日本文学のあり方そのものを変えた大きな存在である。…デビュー作以来、村上がどれほど自らの作品世界を拡大し、深めてきたか。その行程はそのまま日本文学が新しい領域を獲得していく過程でもあった。村上春樹をして夏目漱石以降もっとも重要な作家とされるのは故なくしてではない。」評価とか賛辞とかを通り越して、村上は既に文学史的存在であるという激賞である。それを読んでも一寸気が遠くなる感じがした。

『スプートニクの恋人』は67点、読んでないが『ねじまき鳥クロニクル』は96点だ。村上の登場人物というのは本当にどこかに必ず不全感があって、そこがなんだか私には便秘の腹のような気持ち悪さを感じるのだが、その気持ち悪さを見据えることが現代の文学の使命だといわれてしまえばそうかもしれないとも思う。しかしもちろんその先の何かが人間には必要なので、下剤のように急に効くものである必要は無いかもしれないが、不全のままでほったらかされているのはなんだか業腹だ。そう考えてみると『スプートニクの恋人』のラストはそういう方向に動き出したものだ、と考えられなくは無い。というか、そういうことにしておこう。

今日はところによっては夏日、ないし真夏日にさえなるというが、今のところはそんなに暖かいわけでも無い。「ない」を「無い」と書くのも時にはいいな。朝から掃除したり洗濯したり。からだを動かすことが人間には必要だ。


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村上春樹が分からない

from invisible-runner at 06/07/23

kous37「Feel in my bones」より。 この村上春樹に対するイメージは、私に とってもまさに、というものです。言うほど私は村上春樹を読んではいなくて、『ノルウェイの森』『1973年のピンボール』『スプートニクの恋人』くらいか。もっとあった気もしたけど忘 ...

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by Luke Peterson

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