村上春樹『レキシントンの幽霊』

Posted at 06/04/15

昨日の午前中はいろいろなものに手をつけては止め、という感じだったが、昼食後やはり村上春樹を読もうと思い、駅前の書店に探しに行く。文庫で沢山あるに違いないと思ったのだが、いくつかの出版社で数冊しかなく、しかも「下」があって「上」が無いとか、「第2巻」があって「第1巻」が無いとか、きわめて商売熱心な状態で呆れる。よく見てみたら文庫の揃え方も適当で、売れたものもほとんど補充していないようだ。それでも駅前に他に書店は無いし、いつでも立ち読み客がいるから構わないと思っているのかもしれない。

私の高校時代にはぎっしり本が詰まっている本屋が他にあり、特に岩波文庫や新書は何でもある感じだったが、家庭の都合か何かで閉めてしまい、今では駅前に一軒しかなくなった。ちょっと郊外に出れば蔦屋など大きめの本屋はいくつかあるのだが、歩いていくには大変な距離だ。昔は図書館も駅の近くにあり、気の利いた喫茶店や楽器屋などもあって駅から学校の間で文化的欲求は大体満足させられたのだが、(こちらも大して物を知っていなかったということもあるが)今の高校生は大変だと思う。レベルの低下が言われて久しいが、そういうことも関係のあることだと思うし、人に会うたびに言うのだが、誰も本気で取り上げない。都市の文化的基盤と言うものに、もう少し配慮してもらいたいと思う。

話はずれたが、そんなわけでとりあえず『レキシントンの幽霊』という短編集を買った。午後と帰京の列車の中で読了。いろいろな印象が浮かぶ。あまり整理されていないがちょっと感じたことを。

全体的に若年寄の説教を聞いているような感じ。説教臭い、という印象を持つ人がどのくらいいるのか分からないが、私はかなり強く感じた。時々太字のゴシックで書かれた文があり、目障り。30年近く前、始めて村上の文章を何かの雑誌で読んだとき、このゴシックがすごく違和感があったことを思い出した。ここに収められた文章がそうだというだけなのかもしれないし、あるいは文学とはそういうものだという見方もあり得るとは思うが、読者を追い込んでいって作者の意見を突きつける、というセクトや宗教の勧誘のような書き方の部分があり、私は基本的にそういうものに敏感(つまりひどい目にあってきている)なので反感というか違和感というか近づきたくない感じというかまあ自分の一生とあまり交わりそうに無い部分のものとでもいうか、そういうものが意識された。というか、つまり私が直面するのを避けてきたものの蓋を開けようとするところが村上の文章にはあると言うことなのだろう。昔よりはそういうものに直面する気合のようなものはあるとは思うが、微妙に不愉快だ。

しかしまあなんだかんだ言っても優れた書き手であることは確かなんだろうなと思う。平易な文章で、冒頭の表題作なども物凄く分かりやすく人間の孤独を表現しているかと思う一方、「パーティーをする幽霊」が何なのかはいまだに分からない。が、こちらを読んで、この作はともかく、この短編集全体で「死」について書いていることは確かだなと思った。そっち方面から考えてみると、レキシントンの古い屋敷の、生の側の世界が清溢であるのに対し、死の側の世界が明るく豊穣であるという対比が浮かび上がってくる。考えてみれば大量のジャズレコードのコレクションとか、登場してくるもの全てが死の側から生の側に対してもたらされたもの、あるいは残されたものと見做すことも出来る。

2作目、「緑色の獣」。ひとことで言えばオセロのコマ。イヤ過ぎる描写あり。

3作目、「沈黙」。いいと思う一方で説教臭い。「この男にはおそらく本物の喜びや本物の誇りというようなものは永遠に理解できないだろうと思いました。」説教臭いのだが、しかしこの台詞の傍に、本当に村上がいるような気がどうしてもしないのがややこしい。みんなどう思うんかいな。みんなって誰。

4作目、「氷男」。何だろうこれは。安倍公房「箱男」以来こういうのが時々ある。小林恭二「電話男」はある必要があって読んだが、「箱男」は呼んでいない。「電車男」は増して読んでいない。氷男ねえ…

5作目、「トニー滝谷」。これがいちばん好きかな。描写が華やか。何部屋も高価で華麗な洋服の洪水にしてしまった買い物狂の妻が諭されて返却にいった帰りに事故死する描写がなんだか人生ってそんなもの、という幻想を抱かせる。これも死と孤独がテーマだが、孤独と言うのは生の宿命で、死の側のものではない、というのがなんだか強いメッセージ性があるような気がする。それが当たっているかどうかはどうなんだろうとも思うけれども。

6作目、「七番目の男」。人生に直面したら逃げてはいけませんよと言うお説教。この作品だけではないが、寓話性が強い。寓話と言うのはお説教的なもので、お説教の方が付け足しなのかもしれないが、この話はお説教の方が強い気がする。

7作目、「めくらやなぎと、眠る女」。これは今まで私が思っていた村上作品の印象にいちばん近いかもしれない。「目を閉じると、風の匂いがした。果実のようなふくらみを持った五月の風だ。そこにはざらりとした果皮があり、果肉のぬめりがあり、種子の粒立ちがあった。」という冒頭の描写。無花果みたいだが、こういうやや不快さの混じった甘やかさのようなものが「村上的」と感じていたのだろうと思う。このあたり、ちょうど特急が新宿に着いて、中央線快速のホームから見ていた線路の記憶に重なる。最後を読んだのは快速に乗ってからだっただろう。近藤ようこの『仮想恋愛』を思い出した。思えば近藤という人も文学的なマンガ家だ。

***

村上好きな人は、村上作品のどこにはまるのだろう。村上作品の文章はきわめて平易、絵画でいえば具象的なのだが、それが何を表現しているのかということは謎めいている、という部分がある。ただ、どちらにしても現代芸術というのはそういう形でしかあり得ないと私は思うし、明確なメッセージ性よりも描写の中にこそ存在意義があるのだと思う。

しかし、何か言いたい、それもある種の進歩的ないしサヨク的、あるいはケンブリッジ学派的な知性の立場(少なくとも京都学派じゃない)から言いたい何か、というのは村上作品に影のように付きまとってはなれないように思う。私などが感じるイヤさの根源というのはそういうところにあるのだろうと思うのだが、これもまた「好きな人にはこたえられない臭み」であるのかもしれない。

いずれにしても土着性のかけらも無い、日本人が書いたのでなくても構わない、逆に言えば十分翻訳しても理解されやすい作品であることは間違いない。徹頭徹尾「都市の人間」の文学だなと思う。都市の洗練と田園の霊性の両立というか、私の欲しいものはそういうものかもしれないという気が、村上を読んでいるとして来る所がある。

異論反論歓迎。ただ、私は『レキシントンの幽霊』一冊しか読んでいないので、具体的な文脈に関してはこの作に対してのみのものがいただけると有難い。そういえばレキシントンはアメリカ独立戦争の始まったところだ。ソローが住んでいたコンコードもまたそうだ。きわめてアメリカ的な土地なのだ。


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