春の匂い/(中国や米国に比べれば)友人としてのロシア/『ノモンハンの戦い』

Posted at 06/04/12

昨日帰郷。出かける前に江東図書館に立ち寄り、「UP」の2005年1月号を借りる。沼野充義「世界(文学)とは何か?」を読むつもりで借りたのだが、ほかの論考、蓮実重彦「暗澹たる思いはつのるばかりです フィルム・スタディーズと大統領」や松浦寿輝「エドワード・W・サイードの偉大」もなかなか面白かった。いわゆる文芸雑誌に載るものとは一味違い、自分の最先端の研究の話をざっくばらんに語っているという感じでいろいろ興味深い。知の世界の広がりというものが感じられる気がする。編集後記はいただけなかったが。『アイヴァンホー』は返却。

今回はプーシキンの詩をもう一度読み返してみようと思い、全集の1巻だけを持って帰郷するつもりだったが、読みかけで気になったので岡野玲子『陰陽師』の第6巻も持ち帰る。少数精鋭、時間はどのくらいあるかわからないが、じっくり読んでおきたい。UPの論文がもっと大掛かりなものだと思っていたのでこのくらいにしたのだが、6ページほどの小論だったのでちょっと期待はずれ。しかしこれももう一度きちんと読んでおこう。

午後から夜にかけて仕事。ようやく少し忙しくなってきた。もう少し忙しくならないと経営的には困る。仕事の合間に有機化学など、ちょっと勉強。夜は『陰陽師』を少し読んで就寝。

***

今朝は朝から松本に出かける。松本で松本電鉄に乗り換え、目的地の駅で降りたら約束の時間よりずいぶん早い。そのあたりを一周歩いて時間を潰す。「今が一番大変なときですね」と声をかけられる。確かにそうだ。時間的に松本まで歩く余裕もあったが電車を20分ほど待つことにし、駅のホームであたりの景色を眺める。北アルプスはもうだいぶ雪が融けて、冬の間は真っ白だった山肌もだいぶ黒いところが見えてきた。大町の方、つまりもっと北のほうでは雪崩などの被害も出ているが、このあたりの西山はもう春の風情だ。
ホームの横の家の庭に木蓮があって、蕾が今にも開きそうなくらい。梅は今が満開、桜も早い品種はもう咲き始めている。春の陽射し。うーんと息を吸ってみると、肥の匂いがした。肥といってもさすがに現代は下肥ではない。そういえば昔、キャベツをよく洗わないで食べると回虫の卵がついているとかよく言っていたが、最近はそんなことはないんだろうなあ。回虫を体内で飼っていると(笑)感染症にかからないという話があったが、あの研究は最近どうなっているのだろう。肥は堆肥か、それとも鶏糞など家畜糞か。春の農地というのはそういう臭いだったなとなんだか懐かしく感じた。

電車で市内に戻り、中央線の発車時刻まで30分ほどあったので本屋へ行こうと思い探すが昔会ったはずの本屋が見当たらず、仕方なくパルコの地下のリブロへ。松本にもパルコがあるんです。って誰に言っているわけでもないが。時間がないのでぱっと目に付いた本を買うことにした。シーシキン他/田中克彦編訳『ノモンハンの戦い』(岩波現代文庫、2006)。シーモノフ「ハルハ川の回想」という文も収められていて、そこに出てくる会話がいかにもロシア人らしい会話なのが懐かしい感じがした、というのが強いて言えば買った理由だろうか。プーシキンを読み込んで以来、ロシア人というのは実は日本人にとって最も理解しやすい、仲良くなりやすい民族なのではないかという気がしてきている。

ロシアは日本では常に脅威の対象として理解されてきていて、また左翼陣営では「共産主義の師」のように扱って崇め奉ってきているというとてつもないねじれた関係になっているわけだが、脅威としてでも師としてでもなく、(確かに敵としては脅威なのだが、師というほど大したものではない)友人として対等な関係を結ぶのに、日本の周辺の国としては、民族性の上でということだが、一番関係を結びやすい国なのではないかと最近思っている。今までは共産主義の国ということで迂闊に近寄るべきではない部分があったが、最近のアイデンティティ戦争の時代になると中国や韓国のように中華思想的に日本を蔑視しないと気がすまない国や、勝利者として常に傲慢に振舞うことを忘れないアメリカなどに比べると、戦うときは徹底的に戦うし利害関係では決して譲らないが、利害関係を抜きにするとこれらの国々に比べてロシアの方が理解しあいやすいのではないかと思うのである。どちらも、西欧とアジアの狭間に存在するということを強く意識している国であるし、そして結局はどちらにも属せないという感覚がある部分が共通している。

最近の佐藤優の著作を読んでもそう思うが、日本国内のアメリカ派もチャイニーズ・スクールもどうしても朝貢外交的になるが、ロシアに対してはそうならずに対等の関係を結んでいけるという気がする。伝統的な敵対意識がおそらくお互いにかなりあると思うが、中国やアメリカとの外交に行き詰まりがちな現在、ロシアという選択肢を用意しておくことは決してマイナスではないように思う。

帰りの電車の中で『ノモンハンの戦い』を少し読んだが、基本的にはソ連赤軍のノモンハン戦争勝利の記録で、最初に政治情勢として日本の情勢を分析しているが、いきなり偽書として悪名高い「田中上奏文」が史実として扱われていて大笑い。また「モンゴル侵略を主張する軍閥の一員」としてハデザケという人物が出てきて、そんな名前の日本人がいるか!と思わずツッコミを入れた。この本によると「日本帝国主義」は「モンゴル侵略」を虎視眈々と狙い、ソ連領ザバイカル地方の「奴隷化」を目論んでいたのだそうだ。なるほど立場が変わるとそんな空想の産物が一人歩きしていくのだなと感に堪えない。逆にいえば、ロシア脅威論などもロシア人が見ると奇想天外な物に見えるのかもしれない。お互いがお互いのことをよく知らないで恐ろしがりあっているというのは滑稽だが危険なことである。日本はアメリカにはだいぶ理解されてきていると思うが、それは占領によって裸にされ、80年代以降の「構造協議」によって身体検査が進められて「アメリカがうまく飼い殺せるための日本」が彼らの計画どおりに進んでいるからであって、あんまりめでたいことではない。そういう意味ではお互いに理解が不十分なのは健康的なことで、お互いにあまりよく知らないということを前提にお付き合いするのが大人の関係というべきであろう。

党派的な言い草は笑止だが、もうこの世になくなったソ連共産党の言い草だし、そう目くじらを立てる必要もなく、ばかげていると切って棄てればよい。訳者の政治的発言にも引っかかる部分もあるが、そのあたりも我慢して読めばいろいろ考えられる部分があって興味深い。


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