「モーツァルトとサリエーリ」「石の客」ほか
Posted at 06/02/14 PermaLink» Tweet
『プーシキン全集 3』を読み続ける。
「モーツァルトとサリエーリ」。これはいうまでもなく、映画にもなった舞台「アマデウス」の原作と同様、サリエーリがモーツァルトを暗殺した、という「噂」をもとにした作品である。モーツァルトが死んだのが1791年、サリエーリが死んだのが1825年、プーシキンの構想は1826年に始まり1830年に作品化されたというから、約40年前、ほぼ一世代前の話である。今で言えば、68年の学生運動の高揚時のエピソード、のようなものだ。そう考えるとドキュメンタリー色も感じられる。
内容はモーツァルトの才能に嫉妬を感じたサリエーリが食事の際にモーツァルトのシャンパンに毒を盛る、という割合単純な話だが、モーツァルトの「聖なる無頓着さ」が面白いし、一番印象に残るのは冒頭のサリエーリの「人は皆、地上に正義はない、と言う。/しかし、天上にとて、正義はない。私にとって、/それは、単純な音階のように、明確なことだ。」という台詞がかっこいい。これは近代人の意識といっていいものだろうが、それよりもそう言い切る強さの格好よさが、プーシキンの本質のように感じられる。スターリンがプーシキンを愛読したらしいことはジョークなどで出てくるが、スターリンが好きだというのも分かる気がする。
「石の客」。これも題名から一見して想像がつくように、ドン・フアンものである。ドン・ジョヴァンニからの引用が題銘にあり、前の作品とモーツァルトつながりになる。この中で自分の殺した騎士団長の未亡人、ドーニャ・アンナに魅かれるドン・フアンが「あんな未亡人ようの黒いヴェールを被っているんだから。細やかなかかとがほんのちょっぴり見えただけだ。」というと下僕のレポレーリョが「旦那さまにはそれで十分でございましょう。旦那さまは想像力がおありだから、一瞬のうちに残りの部分を書き足しておしまいになる。旦那さまの想像力は絵描きよりも俊敏ですからな。」と答えるくだりは愉しい。
ドン・フアンのかつての恋人ラウラが騎士団長の弟・ドン・カルロスを誘惑するときの「暖かい空気はそよとも動かず、夜はレモンと月桂樹の香りがするわ。」という台詞のポエジーも素晴らしい。またそこに侵入してきたドン・フアンがドン・カルロスを倒し、あっという間にドン・フアンに媚態を見せるラウラに「正直に言いなさい。ぼくの留守のあいだに、何回ぼくを裏切ったか?」「それじゃあ、あなたはどうなの、道楽者さん?」「さあ、言えよ…いや、その話はあとにしよう。」という第二場の切りもぞくぞくするほどいい。
訳者・解説者の栗原茂郎氏は「ドン・フワンは、きわめて情熱的ではあるが、打算的なところがなく、誠実で、決断力のある、豪胆な人間として描かれている。」と書かれているが、ちょっとそれは違うんじゃないか、褒め過ぎではないかという気がする。やはりプーシキンの描くドン・フアンも蕩児であることに違いはないんではないかなあ。
「ペスト流行時の酒盛り」。イギリスの詩人ウィルソンの『ペストの市』の一場面の翻案だと言う。主人公ワルシンガムの歌、「歓喜に酔える恍惚は 戦闘のさなかにあり/…ペストの息吹の中にあり。/死のきざしあるものはすべてみな/人のこころに言い知れぬ/ひそかな愉悦を秘むるなり」という自暴自棄的な、死を近しいもの、喜ばしいものと感じようとするある種の倒錯的、虚無的な内容は翻訳が雅文体であるせいもあり、ストレートには伝わってこなかった。しかし死の恐怖を前提としてみると、このような倒錯が起こることを想像することはそう難しくはない。
「ルサールカ」。貴族に捨てられた粉引きの娘がドニエプル川に身を投げ、水の精ルサールカの女王となって貴族に復讐するという話だが、未完。貴族に与えられた真珠のネックレスを蛇と見、嫉妬に悶えるところは「道成寺」を思わせるが、身ごもっていた娘、狂気に陥った父までその眷属として貴族への復讐に加勢させるところは道成寺とは大幅に異なる。水の精はギリシャでナイアード、フランスではオンディーヌだが、ロシアではルサールカというのだなと。解説によると若い娘が溺死するとルサールカになるそうで、旅人を美貌と歌声によって誘い込むと言う話はオデュッセイアのサイレーンのようだ。この話、コワイがなんだか好きだ。勧善懲悪ものだからか。
「騎士時代からの場面」。伝説的な火薬の発明者と言われる錬金術師・ベルトルト・シュヴァルツ神父やらファウストやらメフィストフェレスやらが出て来る賑やかな筋立てになると言う草案が残っているそうだが、未完。騎士になりたがる商人の放蕩息子フランツが家を飛び出し、貴族の下僕となるがそれにも失望し、一揆を試みるが失敗し、囚われの宴席で歌う「貧しき騎士」の歌が白眉だろう。これはドストエフスキー『白痴』にも引用されているそうだが、読んでないのでよくわからない。『白痴』を題材にしたズラウスキの『狂気の愛』は超ド感動したのだが。シネヴィヴァン六本木も今は無し。
これで全集第3巻読了。
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