建国記念日/社民党の先祖帰り/トリノ五輪開幕/プーシキンの民話

Posted at 06/02/12

昨日は建国記念日。神武創業の昔に思いをはせるのは考古学が古代史に取って代わられた世代の者としては困難なものがあるのだが、長く永く続く国のまほろばを心に描くだけで何か豊かになったような気持ちになれる。国への思いというのは日本の場合、何かそういう漠然とした豊かさのようなものが根底にあるべきなのではないかと最近思う。

推進派の集会では秋篠宮妃殿下の御懐妊を寿ぐ声が多く聞かれた。当然のことだろう。反対派の集会では、遠まわしの言い方ながら「天皇制廃止」とも受け取れる声がかなりあったようだ。こうした運動も支持者を失って、だんだん原理主義化してきているのではないか。共産党すら天皇・皇室を容認する方向に変化しているのに。ある種の先祖帰り現象か。

社民党大会が開かれ、かなり大きな綱領的な変更を行った。今まで容認していた自衛隊を「明らかに違憲状態」としたり、細川連立政権での小選挙区への賛成を「誤った判断」として反対したために除名した議員の名誉回復を行ったりと、明らかに原理主義的な政策変更をおこなっている。最近、社民党の議員がテレビなどで喋ってもその描こうとする世界観そのものが滑稽なくらい非現実的に思えることが多いのだが、ますます普通の人の目にはみえないところに行ってしまう感じがする。

その一方で、細川連立政権時の土井衆院議長、自社さ政権時の村山首相を名誉党首に推薦すると言うのだから何を考えているのか。村山首相は妥協・無能・無策の象徴とでもいうべきであったし、土井氏も拉致問題への冷淡さや北朝鮮との不適切な関係、秘書給与疑惑が指摘されるなど、どちらの面から見てもその名誉を称える要素などない。あるとしたら、お手盛りの仲間ぼめに過ぎまい。自民党の権力の次は名誉という我利我利亡者の縮小再生産的な真似をしていったい何が面白いのか。

結局は広い国民的視野を失って自分たちだけの見方でものを判断するようになり、現実感が全く失われているようにしか見えない。閉じられたサークルの中でお互いにホーリーネームを与え合って喜ぶようになったら政党としては終わりだろう。

私は賛成できないけれども、社会民主主義的な政党が日本に全く不必要だとは言い切れない。フェミニズムのような妙な方向に引っ張られてしまってわけのわからない集団になってしまっていたが、経済的自由の追求や伝統の中に活路を見出す以外の、それもまっとうな議論が出来る集団が一定勢力としていなければ日本の政治のバランスが崩れるとは思う。そうした国民の漠然とした不満を受け止める受け皿が社会民主主義であるのかどうかは世界的に見てももう判然としないのではあるが、ここでの先祖帰りは自滅を早め、選択肢の一つを完全に消滅させてしまうことにつながりかねないように思う。

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トリノオリンピック開幕。ニュース映像で見ただけだが、開会式の様子はさすがオペラの国イタリアという感じで、ここ数回の開会式の面白くなさに比べてなんだかずっと見ていたら泣いたんじゃないかと思うような演出だった。競技は日本選手は不振のようだ。やはり伝統的な「やりにくさ」がヨーロッパにおいてはあるのかなと思う。特に冬季の種目は、ヨーロッパ人の、ヨーロッパ人による、ヨーロッパ人のための競技であるという色彩が強いから、それをヨーロッパで行えば目に見えない面で日本人には不利な面が多いのではないかという感じがする。選手団には頑張ってもらいたいのではあるが。

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金曜夜帰京。土曜日はいつものように体調が悪く、一方で仕事が大量に残っていたので青息吐息で夜にようやく完成させる。あとは郵便局に行って郵送するだけだ。

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しかし昼前に江東図書館に出かけ『プーシキン全集』の2巻を返して3巻を借りてくる。この巻は民話詩と劇詩。お目当ては劇詩の「ボリス・ゴドゥノーフ」であるが、先に民話詩のほうを読み、こちらの部分は読了。どれもこれも面白い。

「坊主とその下男バルダの話」は年に3回坊主のひたいをはじかせるのを条件に何でもやる下男の話で、なんだか魔法的な面白さ。しかしこれが聖職者批判ととられて生前は出版できなかったと言うのだからへぇと思う。「サルタン王と、その息子、ほまれ高い、たくましい勇士グヴィドン・サルターノヴィチ公と、まことに美しい白鳥の王女の話」は姦計に嵌められて追放される王妃と王子、あっという間に成長する勇者、言ったことが次々実現する面白さなど、非常に民話的な魅力に富む。ここに出てくる「海」はやはり黒海だろうな。南の温かい海への希求と豊かな貿易の記憶がこの話に反映しているように思う。プーシキンのこちらの部分はロシアの西欧への希求のようなものは全く出てこず、正教世界的・スラブ的・タタール的・イスラム的要素が強く感じられる。

「漁師と魚の話」は日本でもありそうな「舌切り雀」パターンのよいおじいさんと悪いおばあさんの話。おばあさんの「悪振り」が極端でいいし、また最後の落ちがぞくぞくするほど面白い。これが民話の魅力でありまた、勧善懲悪の魅力だよなあと思う。昔寝る前にダンテの『神曲』を読み、「悪いことをした」人たちが地獄で苦しめられているのを見ると不思議に落ち着いてすやすや寝られたものだが、そういうすっきり感のようなものが「勧善懲悪」ものの大きな魅力なのだろうと思う。それがソフィスティケート(あるいはアンソフィスティケート)されると水戸黄門の印籠になるんだろうが、あれはあんまり解放感がない。しかしあれを好きだと感じる人が感じるものもそういうものに近いのだろうなとは思う。それにしても、「赤いろうそくと人魚」ではないが、海の絡むこうした話はどうしてこう絶対的な「こわさ」を持つのだろうと思う。海に対する私の中にある畏敬の念が、そういうものに刺激されるのだろうか。

「死んだ王女と7人の勇士の話」。これはまるっきり白雪姫なのだが、王女の婚約者の王子が行方不明の王女を探して太陽に問いかけ、月に問いかけ、風に問いかける場面が非常にリリカルで気持ちがじわっとやわらかくなる。この話はとてもいい。

「金のにわとりの話」。これはリムスキー・コルサコフのオペラにもなっていたし、市川猿之助が演出したこともあった。私は観たこともないし読むのも初めてなのだが、非常に不思議なテイストの話で、魅力的である。奇妙に不条理なところがある。何の寓意なのか分からない不思議さが爾来議論を呼んできたようだが、それも話の面白さがあってのこと。そういう議論を読んだこと自体が作者としては会心であったに違いない。

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