作者の死/プーシキン/ADHD治療薬

Posted at 06/02/10

昨日はよく仕事をしたという感じ。午前中から松本の方に出かけ、仕事の後いろいろ打ち合わせ。戻ってきてまた仕事。いくつも質の違う仕事が一杯入り、帰宅して夕食を食べたのはもうニュース10のスポーツコーナーが終わった後だった。しかしとりあえず松本に行く仕事は今季は終了。終わった終わったと自己確認。打ち上げるほどではないが、口に出すと終わったという実感が喜びとともに込み上げる。けりをつけたり切り替えるにはよく効くアクションである。

『ユリイカ』は小谷野敦氏の論考を読む。「作者の死」という概念が最初よくわからなかったが、つまりは作者の意図とかそういうものを考えずに作中に書かれたことだけから作中人物の心理の動きなどを考えるということだと理解していいのだろうか。つまり、作者がそれを書いた背景や意図などは一切考える必要がなく、どう読んでもいい、ということになろうか。「誤読の自由」という言葉があったが、それとどう違うのか。しかしそうなると例えば聖書に書かれたこと、コーランに書かれたことなどどんなに冒涜的な読み方をしてもいいということにもなって来そうだし、どんな文章からも読み手に好きな結論が引き出されるようになる気がしないでもない。作者というものにとらわれず作品だけを読んでそこから何かを引き出す、という原点に立ち返ればそういう読み方もあるかなと思うし面白い点もありそうには思うが、それに正当性と有効性がどのくらいあるのかはちょっと見当がつかない。文学理論というものにそうこだわりたいと思わないが、何かに行き当たったときには考えざるを得なくなるかもしれないなという予感もある。

『プーシキン全集』は「コロームナの家」を読了して第2巻の作品はすべて読了した。コロ-ムナの家は滑稽なテーマを詩の押韻技法を駆使して表現するといういわば超絶技法練習曲のようなものだが、このおおらかな滑稽さはプーシキンの大きな魅力の一つだと思う。現在は巻末の「解説」を読んでいるが、岩に染み入るように解説内容が沁み込んで来るのを感じるのは、私がこの分野で学ぶべきことがいくらでもあることを意味しているのだろうと思う。学ぶというのは楽しいことだと思う。

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もう10年位前のことだが、アメリカに行ったときにADHDの治療薬というものがあって、落ち着かない子供たちがそれを服用するだけで落ち着いて勉強も出来るようになるし、彼らにとっては福音なんだ、という話を聞いたことがある。当時はまだ日本ではLDやADHDについてあまり認識されていなくて、その両者の区別もつかない時代だった。今朝ネットでニュースを読んでいたら
その治療薬での死亡例が報道されていて
、やはり「いい」ばかりではないのだなと思う。薬を服用して「治療」するというのはいかにもアメリカ的な発想だなとは思うが、何か他の方法でそうした状態を改善できる手段が出て来るといいのだがな、と思う。

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アクセス解析を見ると、最近プーシキンがらみのヒットが多くなっているという印象を受ける。もしそういう検索でこのブログに行き当たった方がプーシキンに関するサイトやブログを持っていたらトラックバックやコメントを下さればありがたい。まだまだ私も勉強したいことが多い。

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