批評的な視点のない研究ほどくだらないものはない

Posted at 06/02/07

昨日。午前中は仕事仕事仕事、一息入れて友人に電話し無駄話。2時過ぎに出かけて団地の中のイタリアンで遅い昼食、向こうの席では団地の管理組合の理事長が独裁だなんだと喧々諤々の議論をしていて生姜焼きの味が分からず。イタリアンな展開ではない。『プーシキン』を返却に日比谷図書館に。久しぶりに日比谷公園を歩く。昨日旭屋書店について書いたことだし、と思って旭屋で本を物色。いろいろ探したが『ユリイカ』のバックナンバーセールをやっていて、2004年の3月号「論文作法」特集を購入。蓮実重彦のインタビューが面白そうだった。その後教文館まで歩き高橋英夫『批評の精神』(講談社文藝文庫,2004)を購入。批評とか評論というのはいったいなんだろうということについて考えたくなっている。自分はなぜ文章を書きたいのかということを歩きながら考える。結論としては、小林秀雄のように書きたいから、ということに至る。しかしこの現代において、私という個性において小林秀雄のように書く、というのはどういうことかという問題が新たに起こる。中央通をそのまま北上し、丸善に立ち寄り、またコレドの地下のプレッセで夕食の買い物をして帰る。

ユリイカの蓮実のインタビュー、実に面白い。蓮実的な世界が濃厚に展開されているが、同じ語彙が共有されている人たち同士の会話ではないのでその綻びからいろいろなものが見えてくる。蓮実の言説活動にはいくつもの中心があるのか、という問いに対して、中心ではなく、方向だと思う、という答え。自分の中にあるさまざまな方向が流れを作り、思いもかけない細部の拡散が起こるときに面白いものが書ける、という表現はその通りだよなあと頷く。

また「批評的な視点のない研究ほどくだらないものはない」という言い方も可笑しい。批評的な視点というのはつまり「時代意識」だという。現代が印刷文化や映画など「複製文化」の時代であるという意識に蓮実は拘っているようだが、もちろんほかの視点もあり得る。

一番我が意を得たり、と思ったのは、ポスコロ、カルスタ、フェミというPC文脈に安住している批評家たちに対する批判で、「ある文脈が提示されたら、それを否定する文脈が少なくとも十はある、ということを最低限の知識として持っていなければ論文なんか書くべきではない。」という切って捨て方である。ここ数年、あるいは数十年、自分の中でもやもやしていたものを明快に、あっけらかんと明らかにしてくれたということで昨日はほとんど興奮状態だった。そのほか、「テレビ的な言説に対抗すべき他の言説が貧しすぎる」とか、「問題とは思われないところに問題を見出す能力である新しい好奇心が必要だ」という主張とか、いちいち嬉しくなるようなことばかり。在学中は蓮実ゼミといえば年に100本以上映画を見るものしか受講を許可しないという敷居の高さとフランスの哲学用語・文学用語を駆使するちんぷんかんぷんな言説空間の主催者という魔術的なイメージで敬遠していたが、こんなことならもっと早く接近していればよかったと思う。


プーシキンは「バフチサライの泉」を読了。「ジプシー」にかかっている。『ロシア怪談集』はチェホフ「黒衣の僧」を読了。天才とか霊感とかいうものが日常性の魔によって喪失させられる悲喜劇を描いている。現在ソログープ「光と影」にかかっている。

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