ムハンマドの風刺漫画問題について認識しておきたいこと

Posted at 06/02/07

ムハンマドの風刺漫画問題、イスラム教徒の攻撃は留まるところを知らない。

探した限りで、この問題について熱心に取り上げていて、判断材料を提供してくれるのはこちらのブログかと思う。またこちらもそうだ。

この問題にはいろいろな切り口があり得るのだが、つまりは「聖なるものへの畏敬」を重視すべきか、「表現の自由」を重視すべきか、ということになるようだ。そして聖なるものへの畏敬の仕方、それに伴う禁忌というのは残念ながら文明ごと、文化ごとに異なる。イスラム社会ではキリスト教社会に比べても遙かに偶像崇拝禁止のタブーが強い。原理主義的な社会においては映画などもまだまだ不道徳であるはずである。もちろんイスラム社会にも絵画はあったが、ムハンマド(マホメットは英語による表現で、現地音主義が強くなってきた現在はアラビア語で表記するのが一般になっている)やアリーのような聖なる存在は顔に白い布をたらして表現される。つまり、顔を描くこと自体がタブーであり、さらにそれに風刺を加えるなどというのはそれ自体が冒涜である、という認識はあったほうがいい。現状ではそれに対する認識が日本でも欧米でも欠けているようにうかがえる。

一方で、イスラム教に対する表現について、ヨーロッパでは言論の硬直が起こっているというのも、かなり深刻な問題であるらしいことは昨日いろいろな言説を読んでいてようやく認識した。イスラム教を風刺した映画監督が昨年暗殺されたということもある。日本でもラシュディを訳した筑波の教授が暗殺されたことがあった、まだホメイニ存命中のことであったと思うが。これは例えていえば中国や韓国の「過去の歴史認識」問題での日本攻撃と同じである。この問題が日本の言論空間をいかに風通しの悪いものにしていたかということは理解されるだろう。日本では拉致問題の発覚と金正日の謝罪によって一気に場面が展開し、そうした中国や韓国の態度を批判することがおおっぴらに許されるようになったが、それでも中国や韓国で日本に対する暴力沙汰が絶えない。

ヨーロッパにおいてはイスラム教批判はことによったら命に関わるという事態にもなっていて、移民を積極的に受け入れてきたのにヨーロッパ文化・ヨーロッパ国家への同化がほとんど進んでいないという「矛盾」が―マルチカルチャリズム的には矛盾ではないのだろうが、その論理が破綻したからこうした事態が起こっているとも言える―この事態を引き起こしたといっていいだろう。これは既に昨年11月からの問題なのだが、日本で言えば「プロ市民」のような人たちが実際の漫画以外のものも取り混ぜてイスラム圏一帯に「こういうけしからん問題がある」と喧伝してまわったということで、このあたりのところも歴史認識問題に似ているところがある。

そういうことが背景にある、ということを一応認識した上で、この問題は見ていかなければならないと思う。

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by Luke Peterson

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