ファシスト小泉/シアトル系/秀才談志と天才小朝/女性作家の描く男
Posted at 06/01/15 PermaLink» Tweet
昨日朝9時過ぎの特急で上京。車中日経を読む。
皇室典範改正案に党議拘束をかけるとの首相の発言。これぞ真正のファシズムというべきだろう。数の暴力で伝統を圧殺する。別のニュースで安倍氏もこれに前向きの発言があったようだが、このあたり真意はまだ分からない。ファシスト小泉の後釜に座るプリンス安倍という構図は、フランコの後を襲ったフアン・カルロス1世のような感じだ。伝統に対する安倍氏の態度で、これからの日本の運命の大きな部分が決まる。滅亡を防ぐための選択肢はそう多くない。安倍がだめなら、現在死に体の平沼に描けるくらいしか可能性がない。
6面でシラクの引き際が云々されている。確かに難しいところだが、シラクはジスカール・デスタンのような貴族ではなく、サッチャーと同じく下層ブルジョア出身だ。国王のいない国でシラクのようなタイプの政治家が終わりを全うすることはもともと難しい。任期前にさっさと引退した方が、プラスの印象を残せるのではないかとすら思う。
NIKKEIプラス1の1面。スタバにもほとんど行かない私にはなじみのない言葉だったが、シアトル系のコーヒーというものがコンビにでもよく売れているらしい。森永乳業のマウントレーニア(シアトルにある山だそうだ)シリーズとスタバとサントリーの提携商品が上位にいて、ここでの定義ではシアトル系というのはエスプレッソにミルクを混ぜたものということになる。いわゆるカフェラテか。エスプレッソもカフェラテもイタリア語なのになぜシアトルか。書いて見るとどうでもいいことだなと思うが。女性が流行を作る、とよく言うが、それはなぜだろう。女性の消費行動が旺盛だ、と解釈も出来るし、女性は流行を追ってみんなと同じものを買いたがる、という解釈も出来る。みんなと同じものを買いたがると言うことは勝ちたいと言う気持ちより負けたくないと言う気持ちの方が強いからなのだろうかと考えてみたりするが、女性の気持ちというものは分からない。
しかし缶コーヒーというものは男性の消費が8割を占めるとされているのだそうだ。気がつかなかったが、言われてみればそうかもしれない。あんなものに120円も払うのはどう考えても金の無駄なのだがつい買ってしまう。女性はもう少し実質を取るような気がするが、なんとなくシアトル系のほうが実質があるような気もしなくはない。無添加の珈琲の方がいいと私は思うが。
2面。宇宙旅行料金は大体23億円だそうだが、最近有人宇宙飛行を実現した某国が市場に参入すると費用が下がる可能性があるのだそうだ。どう考えても「片道切符」という言葉が浮かんできてしまう。珈琲はブラックで。10面。宮廷女官チャングムという名を最近よく目にするが、朝鮮王朝実録に出てくる実在の女医なのだという。80へ江。12面、琴電の記事。志度線の終点の志度が平賀源内の出身地で、エレキテルもそこに現存するという話。60へ江くらいか。
腰の調子が悪く、金曜の夜は絶食したのだが、大丈夫だと思って車中サンドイッチを食べたら車中腹が痛くなって手水に通う。東京駅で丸善を一周してそのまま帰宅。なんとなく油断してものを食べる。午後友人から電話がかかってきて、佐藤亜紀という作家がすごいから読めという話。受験生の娘をついでに励ます。調子が悪くてうまく日常に戻れず、『風雲児たち』を20巻くらい読む。『風雲児たち 幕末編』を8巻通し読みしたのは初めてだ。しかしみなもと太郎も幕末編になってからちょっとテンションが落ちている。もともと幕末を書きたかったと言ってはいるが、幕末を扱うとどうしてもイデオロギー的問題が絡んできて、人物の面白さだけでは書きづらくなっているなということを強く感じる。幕末史は戦争体験と内的に連関してしまう部分が多いらしく、戦争体験とそれに対するスタンスの硬直性の縛りが物語の闊達性を失わせてしまうのだなと思う。
朝起きてなんとなく茶漬けを食ったらまた腹の調子が悪くなり腰の調子も悪い。やはり減食を真剣にしないとだめのようだ。昼食を抜く。辛いが、何かを我慢することでしか乗り越えられないものもあるよなと思う。
朝は早起きして『談志陳平言いたい放題』を見たのだが、談志が笑いとは何か、という話をしていたのが面白かった。詳細は書かないが、そうかと思ったこと。談志が求める笑いは笑えればいいというものではない、という話。笑いたければ木久蔵のところへ行け、という言い草がおかしかった。もちろんそれは木久蔵を非常に評価した言い方なのだが、同時に談志は笑いの質に知性とかセンスを重視しているということが分かった。談志の毒とか、談志がイヤなヤツだと言われるのは、要するにその芸が知的だということなのである。
笑いとは超自我の破壊だ、自分を抑えるスーパーエゴが崩れたときに人は笑う、なんてことを言う一方で笑いにはウィット、つまり、うまいこというな、という笑いがあるという。そうなるとその笑いにはどう考えても分かるやつにしかわらかない、という共犯者的な愉悦があり、それが分かるものの中での共同性の構築とか確認ということが為されると見ていいだろう。つまりそこにあるのはある種の差別なんであって、当然嫌味なわけである。そういう意味で教養というものと同じもの、いや、教養が笑いという形をとると談志の芸になる、といってもいいかもしれない。教養が単なるおたくの内輪ウケと違うのは、教養には階級性の裏づけ、つまり差異性・差別性を内包するところが価値がありまた嫌味もあるのである。逆に考えるとお宅とは階級性の伴わない教養ということも出来るわけで、こんな平等社会になってしまうと無残なことになるものだという例なのだろう。
だから逆に教養人とか知的な笑いを求める人、あるいは作り出す側も、こんな平等社会においてはそれを求めることにある種の後ろめたさが付きまとうことになる。陳平という人はある意味笑いの分からない真面目な野暮天なのだが、それを差別しきれないのが現代社会の中途半端さなのだなと思う。やはり談志の笑い、あるいは教養や文化に浸る楽しみというのはそのあとで「でもこれでいいのかな」というそこはかとない罪悪感が付きまとう。それを振り切るにはそれなりの覚悟が必要なのだろうと思うし、だからこそ談志の芸には疾走感があり、息切れしてくると死にたくなってしまうようなところがあるのだと思う。
談志の芸の本質をそんなふうに考えると、たとえば彼が皇室を毛嫌いするのも彼のガクのなせる業なのだなということが理解できる。彼らの若年の時代には、皇室を嫌うのがガクのある行為だったからだろう。それは今ではつまらない左翼や進駐軍の生み出した雰囲気的なものだと捉えられるようになっていて、むしろ皇室を尊崇する方がガクのある行為だと意識されるようになってきている気がする。まあ江戸時代末期のようなものだ。猫も杓子も尊王尊王である。そういえばどこかで読んだが、「猫も杓子も」というのはもともと禰子(禰宜)も釈子(釈迦)もという意味で、神道家も仏家もという意味であったらしいが。まあよい。
なんて考察を適当に加えていたら『波乱万丈』で春風亭小朝。談志も天才だと思っていたが、小朝の話を聞いていると本当の天才というのはこっちで、むしろ談志はインテリの秀才だと言うべきなのではないかという気がしてきた。もちろん談志もただの秀才ではないが、世の中にはそういう秀才もいるのである。小朝の企画力と実現力というのは聞いていると呆れるくらいである。こぶ平を正蔵にするときのパレードを企画したのも小朝だというし、どうやらこぶ平の弟には三平を継がそうという野望があるらしい。細木数子が小朝のことを神様だといったというが、確かにそんなところがある。ガクをひけらかすというところが全然ないのが逆にこれでいいのかなと思ったりもするが、本当はたとえばそれはなくなった三木助の役どころだったのかもしれないなとも思う。まあいい。
ものを食べないと退屈なので出かけて西友でバラと榊と珈琲(挽いたやつ)を買い、本屋で佐藤亜紀を探してみると『天使』というのがあったので買う。帰ってきてちらほら読んだ。確かにすごい作家だということは認めるが、どうしても女性作家の書いた男性像というのは尻がむずがゆいような感じがある。たぶんこれは男の作家が書いた女性像が女性にとっては納得がいかないと思われるのと似たところがあるのではないかと思う。読んでいて、男のことが分かっていない、というより男のいわゆる「オトコ」性というようなものを尊重する気がまるっきりない、という感じが白けるのだなと思う。男が書かれているのにその男に思い入れが出来ないのはなかなか辛い。あ、そうか逆に宝塚だと思って女が演じている男だと思って読めば読めるのかもしれないな。
たぶんそのあたりのところが女性作家の作品を私が読めない理由なんだなと思う。白洲正子とか塩野七生とか好きな女性作家は、その辺の「オトコ」性の尊重具合が巧いのである。まあいい。とかいっているうちに外は暗くなった。
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