失われていく少年の哀しみ/美しさにひかれるということ
Posted at 06/01/10 PermaLink» Tweet
4日にぎっくり腰を起こし、直ちに操法の手当てを受けて何とか立てるようになって以来、腰の調子はまあまあではある。日曜くらいから腰自体をほとんど意識しなくなっていたが、普段と同じペースで立ち歩くと疲れが出やすかったり腰が重くなったりという感じはある。慎重の上にも慎重に、しかしなるべく普段と同じペースで、という感じ。
友人と話をしていて野田秀樹が遊眠社時代に「失われていく少年の悲しみ」のようなものを描いた華やかな美しい作品を作っていたころの話になり、しかし彼のあのころの作品の美意識というのは実は伝統的なものだということで一致した。遊眠社は当時の私などからするとメジャー志向で当時の劇団にありがちだったアンダーグラウンド志向や左翼志向がないということが強く意識されていたけれども、その美意識も広く受け入れられるものをベースにしているのだなと思った。感性が尖っている人たちにも受け、広く一般の観衆にも受けると言うのはある意味そうとうなパワーを持ったものだなと思う。彼の作品がそうした「哀しみ」を歌わなくなってからはあまり見なくなってしまったがもはや当代の勘三郎に演出をつけるようなメジャー演出家であるわけで、私などは何をやりたくてそういう方向に行ったのか見当がつかなかったのだけど、野田さん自身は芝居というものを使って出来るだけのことをしたいということだったのかなと友人に言われてみて思った。
私が所属していた劇団の主宰の話にもなったが、結局彼はアヴァンギャルドがやりたかったのだという話でこれもまた一致。今もアヴァンギャルドな試みを続けているのだけれども、当時もさまざまな志向の人が彼の周りには集まってきていて、そうした前衛性に全くの伝統派から前衛派、空間芸術、時間芸術、いろいろなものを吸引して「お試し」してみる実験室のような感があった。彼が彼としての方法論を確立して以来は逆にそういう部分はある意味捨象されてしまったのだと思うが、私自身も身体論的な方面から演劇に接近して舞台芸術というものの面白さを呼吸することができたと言う感じである。私の美的感覚の中にはそのころに基礎を置く部分が大きいなと思う。少なくとも美というものから隔離されては自分の魂は存在に耐えないというくらいには思う。
私は何だろう、やはり言葉の美しさというものに惹かれる部分は大きい。芝居をやっている頃も、美しいせりふ、よいせりふを言うことが一番の喜びであった。人が言葉を喋り、人がそれを聞くというのは、なんと美しい奇蹟であることか、と思う。だからその分、いい加減な言葉を喋り、いい加減に聞く人には頭にくる、ということは確かにあるし、それが自分の幅を狭くしているところもあるのかもしれない。そういう意味で、朗読芸術のようなものをやってみたい、という気持ちはどこかにある。話す、ということが自分の中で重要なことであることは確かだと思う。
それから、書かれた言語の美しさにひかれるというところももちろんある。平家の公達が青海波を舞う、というたとえばその言葉の美しさ。今一番見てみたいものは何かと言われたらそれだなと思うが、幻想によってかあの世でしか見ることが出来ないのは残念なことだ。
少年が美しいのはたとえば愛という感情を直接的にしか、あるいはもっとも極端な形でしか表現できないところにあるわけで、しかしそれは芸術の中で為されるならば美しいけれども、現実の局面でそういうことをされても迷惑極まりないわけである。美しく表現されること自体は可能な多くの少年の無軌道はやはり暴走でしかない。問題は動機ではなく、それを美に昇華させる方法と技術と能力にあるわけで、そうしたものが急速に失われていく青年期にその美しさが最も表れるし共感すると言うのも当然だろう。平家の公達はそうしたものが完全に失われないうちに生を閉じているので彼らは永遠に美しい。義経もまたそうであるわけだが。
とこれは書かれた言語の話から脱線したが、彼らにしても書かれた言語の力でその美が描き出されていると言うことが重要なことだろう。言語で表現された美をほかの手段で表現しなおすことは難しい。彼らを偲ぶのは源平時代のものとされる古品を玩弄するのが一番だろう。もちろんそんなことは普通は不可能であるが。
話は脱線し続ける、というかもはや本論はあるのかと思うが、芸術というものも身体と身体外の境目に存在するものかなと思う。視覚芸術と音楽とどちらが身体に近いか、ということを考えていると分からなくなる。私などは、音楽を聴いていて美しいと思うのはある種の資格や触覚を呼び覚まされるときである気がする。しかし人によっては絵画を見て音楽が聞こえるという表現をする人もあるし、そういう人は視覚的な美が聴覚に変換されているのかなというふうにも思う。
何だろう私は、やはりこのようにいろいろなものを読んでいくのが好きなのかなと思う。読むと言うことは結局は読んだものを自分の言葉で表現しなおすしかないわけで、それが批評というものの原点だということになるのだろうか。批評というものも最近はある種の方法論をもってしてやらなければならないような感じだが、私がやるとしたらやはり小林秀雄のように徹底して読むと言うこと以外に方法論はもてないのではないかという気がする。
なんだかまとまらないな。最初っからまとめようという気もないのだが。
ま、いいや。
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