契沖:人生は生きるに値するか
Posted at 05/11/17 PermaLink» Tweet
ブラームスの一番を聞いている。昨日からなんとなく気に入って繰り返し聞いているのだが、不安になったり明るくなったり急に思い当たったり、という感じの感情の起伏のようなものが感じられて色彩豊かでさまざまなものを感じさせる。ブラームスは人間の器が小さい、なんてことを誰かが言っていたが、まあそうかもしれないのだが、しかしそういう人が「感じること」がうまく表現されていて、ベートーヴェンのような人間の巨大な人が出会った物とは違うけれどもそのぶん常識的で小市民的な安心感があるような気がする。うまく乗ったときの昂揚感は、ベートーヴェンの方が上だ、なのだが。
6時過ぎに起床。長野県は今年一番の冷え込み。北の方では雪も降ったらしい。こちらは曇り空で、今はだんだん晴れて来ている。氷点下5度くらいだろうか。このところ私はずっと炬燵を使っていないが、今朝は「炬燵があるといいなあ」と思った。炬燵が部屋の真中にあることで部屋中に暖かさが広がるような感じがする。一度入ると動けなくなったり、ずっと座っていると腰が痛くなったりするのが問題だが、あのぬくぬくした感じは何物にも代えがたいものがあると思う。以前もらっていた缶コーヒーが1本になり、寒いのでストーブに乗せてある薬缶で湯煎して飲む。なんだか味わいがある。
昨日は通常どおり。夕方から夜にかけて仕事。それなりに充実した仕事が出来た。独語はこちらでやることにし、羅語と共に少しずつ進める。夜は少し英作文をやり、これも少しやっておいた方がいいなと思った。ウェブで瀧井一博『文明史の中の明治憲法 ―改憲論議への一つの視座として―』をダウンロードして読み、いろいろ啓発される。『文明史の中の明治憲法』という本は講談社メチエで出ているそうなのでまた読みたいと思う。書き物を少し進める。
小林秀雄『本居宣長』契沖についての記述でかなり渋滞し、2度読み返してそれでもなんだか良く分からないのでメモを取り要点を整理しながらもう1度読んだ。
「七」文庫本で11ページ、すべて契沖についての記述。契沖は加藤清正に仕えた武士の孫で、加藤家取り潰しにより没落し、契沖らの兄弟は人にあずけられて「さそりの子のように」扱われながら成長した。契沖も寺にやられ高野山で修行を積んでさる寺の住職にまでなったが出奔し、室生の山中で一度命を断つことを図るが失敗し、再度修行して和泉に閑居した。私が読んだところでは、契沖は「人生は生きるに値するか」という問いを抱えて成長し、修行したが絶望したこともたびたびであったように思われる。その問いの答えを宣長の表現で言えば倭歌への「好信楽」の中に見出し、歌学者として生きることを悟道した、と小林は記述しているのではないかと思う。このあたりの激しい絶望を小林はさらりと書いているので、読み取りきれなかったのだなと思う。
小林にはこの種の小説のテーマになりそうな、絶望やさまざまな感情に淫することを潔しとしないところがあって、良く読まないとそういうものについて読んでいて気がつきにくいときがある。それをダンディズムと呼べば軽薄だが、小林がスタイルとしてそういうものを持ち、また絶望の安売りのような文学にうんざりしがちな私などの読者にとっては感情描写に淫しないリアルに徹することによる広がりを好もしく思うし、契沖という劇的な、あるいは詩的な人間像の描出にかえって成功しているように思われる。
僧侶と言うものは「悟り済ました」者であるが、このような人生の遍歴を取った契沖にとって悟りの道は救いにはならなかった。むしろ和歌の中に人生の真実を見出し、好み信じ味わい楽しむことによってのみ、生きる道を見出したということだろう。古今集の業平の「終にゆくみちとはかねてききしかどきのうけふとは思はざりしを」という歌を取り上げてこれこそ「まこと」の表現であり、死に臨んで悟ったような歌を残すのは人生を偽りを持って閉じるようなものであると言う。宣長はこれを読んで驚き、「法師のことばにも似ずいといと尊し、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ」と絶賛している。契沖は歌学を「俗中の真」と表現し、俗にまみれて生きながらも、「悟り済ましたような」「俗中の俗」を払いのければ足ると考えていたと小林は言う。
小林は契沖についての記述も彼の遺言について言及し、それを持ってこの節を閉じている。小林が宣長についての長い批評を墓所や遺言についての話からはじめ、そのほか取り上げる人々についてもその遺言について言及するのは、「死」というものにいかに対するかという問題意識があったことは明らかだろうが、彼らにおける死というものに対する対し方のなんともあっけらかんとした明るさのようなものをいかに表現するかということに心を砕いているということもあったのだと思う。契沖の遺書も、死にあたって弟子にこの庵に住み続けてほしいということ、お金をゆかりのある人にやろうと思っていたが無力にして果たせなかったこと、残した著書や友人でもあった下河辺長流の書などは形見に分けてくれ、といったことのみが書かれている。死して後さっぱりとこの世から消えてしまうというあっけらかんさがあると共に、ゆかりの人々が形見の品を見て古人を偲ぶさまのゆかしさを想像して楽しんでさえいるようである。確かに死を持って契沖という劇、あるいは詩は閉じ、余韻だけが今もまだ残っている。人の死と言うものはそう有りたいものだと思う。
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