性のエネルギー/ハタラキ

Posted at 05/10/30

金曜夜帰京。金曜は日中ものを書いたりラテン語をやったりしていたが、夜は仕事。なんだか妙な加減で夜更かしし、土曜日は一日変なテンションで少しずつ家事はこなしたのだが寝たり起きたり。ここのところの疲れが妙な形で出たようだ。暗くなってからようやく外出し、日本橋へ。

丸善まで歩いて本を物色したが、結局三枝誠『整体的生活術』(ちくま文庫、2005)を購入。買ったのは、性的に受けるエネルギーというものは、男性が女性から受けるものだけでなく女性が男性から受けるものも母性的なものだという記述が自分の経験に照らしてその通りだと感じられたことが大きかったか。著者は野口整体だけでなく合気道に弟子入りしたりしたと経歴にある。

丸善をでて久しぶりに外食。和幸でロースかつ定食と麦酒のグラス。昨日はなぜか、外で食べたい気分だった。一人客でも邪険に扱われない店というのをあまり思い出せなかったが、とんかつ屋というのは最もそういう店かもしれない。いい気分で店を出て八重洲の地下街を歩き、ブックセンターの地下街店をうろうろした後、酒屋に寄ってマッカランを購入。家に帰ってグラスに2杯ほど飲んだが、すっきりしたあまり抵抗のない味。こういう嫌味のない味に慣れるとなかなか日本のウィスキーは飲めない。パッケージの絵柄が先日アールデコ展で見たカッサンドルのポスターだったのもなんとなくよい。よく読んでみると、これは1920年代のマッカランの味を再現したものとのこと。ヴィンテージウィスキーなどは飲んだことがないが、こうして香りを味わって想像してみるのもいいものだと思う。

夜は倒れるように寝てしまい、また3時過ぎに目が覚めたりしてどうもリズムが出ない。『整体的生活術』を少しずつ読む。整体操法の経験から人間のタイプを睡穴=ポジティブローテンション・汚穴=ネガティブハイテンション・互穴=ポジティブハイテンション・閉穴=ネガティブローテンションに分けてみる考え方など、なるほどと思うところは多いのだが、どうもなんとなく自分の感じているところと必ずしも重ならないところがあるような気がする。専門家の感覚と自分の感覚を比較するのもおこがましくはあるが、「自分には良く理解できないがこの人は凄い」と言うところまでは感じ取れない部分がある。それには、自分が理解可能な部分でのある種の凄みのようなものが必要なのだろう。才能の恐ろしいようなきらめき、近づいたら一瞬にして一刀両断にされそうな凄み、といったものが感じ取れないけれども、一つ一つの言葉にはいろいろうなずかされるところはある、という感じの記述が多い。まだ読み終わっていないのでなんともいえないが、そういう印象を受ける。

昨日の朝目が覚めたときに「ハタラキ」ということばが頭に浮かび、日本人の物質観というか生命観というのはモノがあってハタラキがあるという順序ではなく、ハタラキが先にあるというべきものではないかと考えてみる。これは少し前に神道の生命観を考えていてキリスト教のような神の創造により生まれたものではなくもともと混沌としたものの中からひとりでに生まれてきたという「はじめのとき」の生命のあり方のようなものからの発想である。神がクリエイトしたことによって生まれたという創造的生命観では生命は全て神に従属する対象物に過ぎず、僅かに人間だけが神に類似した精神性を持つということになるが、自ら生まれてきたという初発的生命観では全ての存在は生物も無生物も自らに内在するハタラキにより存在し活動する、というふうに考えられるのではないかと思ったのである。

生命、あるいは全ての生命体には、生まれる、生きる、死ぬというハタラキがある。存在よりもそのもののハタラキによってものを見るという見方はありえるのではないかと思う。ハタラキを機能といってしまうと矮小化する気がするが、考えてみると本来は機能の機はハタラキという意味だからハタラクチカラとでもいうべきで、あまり「機械」ということばの連想に引っ張られるべきものではないなと思った。

そんなまあ浮世離れしたことを考えているとどうも日々の日課が進まないのだが、こういうところから新しい発想が生まれてくるので大事にしたいところでもある。

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