日本シリーズの翌朝/皇室典範問題続き

Posted at 05/10/27

霧で始まった日本シリーズが終わった翌朝は、雨の音で目が覚めた。大方の予想を裏切って、マリーンズの4連勝で終わった。パリーグがどんどんJリーグ化して野球という概念が新しくなっていく一方で、セリーグはなかなか古い夢にしがみついて変化できないということの象徴のような感じのシリーズだった。これでパリーグシーズン二位のチームのシリーズ二連覇。さまざまな疑問や問題は山積してはいる。しかしアメリカ人監督のシリーズ初制覇を含め、なにかが音を立てて変化しているのだと思う。いつかもこのブログで書いたが、今年はまだこの大きな変化は起こってほしくなかったのだが、時の勢いというものは早く強いものだと思う。マリーンズのシリーズ制覇は新しい時代の到来を告げている。

ホークスファンを呆然とさせた2年連続シーズン一位のプレーオフ敗退をはじめどこかおかしいシステムは、なかなか変えられないプロ野球機構を少しずつ変える弥縫策が生んだ悲喜劇だが、時代の流れの演出には一役買っている。いろいろな形で変則的な姿がまだ数年続くのだろうが、野球は日本人にとって「特別なスポーツ」から「普通のスポーツ」になって、地域に根付いた形で定着していくのではないかと思う。観客動員や中継料など経済原理に沿って変化していかざるを得ないプロ野球からその変化は起こるだろうが、いまだに他の体育機構から独立している学生野球機構などの変革には時間差が生じるだろう。
野球というさまざまな意味で戦後的情念を背負ったスポーツが、21世紀の現代日本という情念薄き時代にどのように適応していくのか、われわれ自身の心性の問題でもあるように思う。

昨日書いた皇室典範問題の続き。天皇あるいは皇室という存在は近代的価値や民主主義よりも古い存在であるから、そうしたものがどこまで近代的価値によって改変されることが可能かということについてはよく考えた方がいいというのが私の主張である。ウェーバーの言うカリスマ的支配・伝統的支配・合理的支配の三形態で言えば、皇室はもちろん「伝統的」な存在であり、その根拠は「血縁カリスマ」によるところが大きいのは言うまでもない。女帝論というのは、つまりは男系を維持するためには相当疎遠になってしまう旧皇族よりも女系による継承の方が血縁カリスマが強いという感覚が明示されてはいないが(「有識者」が旧宮家による皇位継承を否定する議論で「国民感情にあわない」という表現をとっていることはそれをさしているわけだが)主張の根拠になっているわけである。

そう考えていくと分かるように、もともと皇室の存在は合理性に基づくものではない。そうした非合理な存在、敢えて言えば超越的な存在である皇室を合理性を持って割り切ろうとしているところがこの議論の最大の問題なのだと思う。

もうあまりに人口に膾炙しすぎていて新鮮味が全くないが、日本の伝統はさまざまな意味で、またさまざまな場所で危機に瀕しているということは改めて自覚すべきだろう。1946年憲法による天皇の規定がこの60年近くの期間にいろいろな形で浸透することで親愛と崇敬を以って成立してきたさまざまな関係が形骸化し、実質は失われ、情念は観念に変化しつつある。そういう意味で言うと深いところから変わることがないだろうと思われた皇室の存在の正統性というものも人々の心のなかでは相当揺らいでしまっているのではないかと思う。

さまざまな議論はあろうが、日本およびその文化の伝統を支えてきたものの、そのなかの大きな柱の一つは皇室制度であったことは否定することは出来ない。国民の政治や歴史というものはさまざまなフィクションによって補強されつつも一貫性というものを必要としている。高浜虚子*はそれを「去年今年貫く棒のごときもの」と表現したが、皇室制度が日本史を貫く「棒のごときもの」であることは間違いない。

そうした棒のごときものは、それ自身もまた一貫した論理で支えられなければならない。男系男子相続というのはその一つの論理である。もちろん男系女子相続は先例があるが、それについての考察は昨日の記事を参照していただきたい。問題は、国民の心のなかでさえ人によっては揺らぎつつあるものを、有史以来の新たに改変した論理を支えに維持することが可能だろうかということなのである。伝統的な存在を維持するためには、伝統的な論理、伝統的な文脈で説明可能であることが必要であり、また将来にわたって説得力を持つのではないだろうか。皇室は現代だけで占有できる存在ではなく、過去の日本人と、未来の日本人にとっても文化の支えとなる存在であると私は思うし、もしそれが必要ないという人があればいったい何が日本および日本人の文化を支える柱と成り得るのかをはっきり示していただきたいと思う。

現代の日本人の状況を見ていると、靖国神社の存在も、皇室の存在も、今の日本人にはもったいない、ふさわしくない存在なのではないかという気さえしてくる。国と将来の国民のために奮闘した英霊たちも、日本という存在の永続を皇祖皇宗に誓い続けた皇室の存在も、その意義を正しく感じている人がいったいどれだけいるのだろうかと思う。

大切なものを全て失い、無国籍な、無責任な大人と無気力な若者がふらふらしているだけの国が日本であっていいのだろうか。本当に「誇りに足るもの」を失ってみてから愕然としてもそのときにはもう遅い。貫く棒を失った日本人は、歴史の波間に消えて言ったさまざまな民族や国民と同様、深い歴史の海に埋没し、日本語も考古学的な知識がなければ読めない言語となってしまうだろう。

どちらにしても、現代という時代はさまざまな意味で危機的であるということだけは認識した方がいい。危機を承知で転落するのも国民の選択次第だが、私自身は日本という愛すべき存在がいつまでも続いていってほしいと思うし、今ならそうできる道はあると思う。

雨は、上がったようだ。

***

*当初、「去年今年…」の句を斎藤茂吉の作と勘違いしておりました。コメントをいただき、訂正させていただきました。

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